墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

岩屋古墳(付近) 福岡県田川郡糸田町鼡ケ池

前回の位登古墳のあとは北西に3㎞半の岩屋(ごうや)古墳へ向かいました。

 

古墳がある丘の南東の、道路沿いに説明板。

岩屋(ごうや)古墳
岩屋古墳は6世紀後半頃築造の円墳。埋葬施設は複室構造の横穴式石室で、石室長7.5m・墳丘の大きさ約24mをはかる。前室の天井部から進入した状態で石室内が盗掘を受けており、敷石もそのほとんどが抜かれているものの、当時の状態をよく保っており、墳丘の保存状態も非常に良好である。
現在、糸田町で発見されている古墳の中では最大級の古墳であり、糸田町の古墳時代の様子を知る上で重要な遺跡である。
平成10年6月30日、町文化財第5号に指定
糸田町教育委員会

 

説明板から15mほど南に、上り口がありますが…

 

ぼうぼうの草に阻まれ撤退。(2023年9月上旬訪問)

 

ピンの立つ辺りを道路から。

 

「当時の状態をよく保っている」という、全長7.5mの石室は見てみたかったです。

グーグルマップの概要欄にて、柵越しでの石室(羨道)写真が見られます。

 

その道路を南西に200mほど行ったところに、「千人塚」の説明板もありました。

千人塚
享保飢饉の供養碑。碑の側面に「享保17年(1732)、稲が腐り、老若男女44人餓死した」と刻まれている。
享保17は天候不順に加え病虫害が大発生、近畿以西に於いて、徳川実紀が餓死者96万人という江戸期最大の享保大飢饉となった。
飢饉による死亡率は福岡藩25%、小倉藩33%、田川郡域27%であった。
糸田町域の死亡率は50%に達した。町内には千人塚の他に宮床大師堂、伯林寺に供養碑が残されている。
平成10年6月30日、町文化財第6号に指定
糸田町教育委員会

 

こちらは説明板の背後、池の向こうに見えている林の中にあるようでした。