墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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阿武山古墳 大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威

阿武山(あぶやま)古墳は、今回(2023年9月中旬の大阪墳行)での主目的地のひとつでした。

 

北東の阿武山配水池側からアプローチしましたが、この門が。

 

たまたま、この鎖を開けて入っている方がいたので尋ねると、「人」は入ってよいようでした。


車を、50mほど背後の道が広くなっているところに停めさせていただいて、標識に従って登ります。

 

このような道なので、上りも楽です。

 

途中で開けたところからの眺め。

 

山道的な分岐に古墳への標識がありましたが、たまたま一緒になった方から、古墳へはそのまま進んだほうが良いとの助言をいただきました。

 

その先のビューポイント。

 

ここからも大阪のビル街が。

 

その先で舗装路とお別れ。

 

金網沿いを登ります。

 

登っていくと阿武山古墳の標柱が!広い方の左を選択。

 

敷石が現われたその先に説明板。

史跡 阿武山古墳
昭和58年8月30日指定
阿武山古墳は、平野をみおろす標高210m余の山頂にあり、遠く笠置から生駒、六甲の山々をのぞむことができる。
この古墳は盛土をもたず、尾根の先端部に溝をめぐらせて径約82mの範囲を墓域として区切っている。
墓室は花崗岩の切石で塼(レンガ)でつくられており、墓域の中央、地下約3mにある。床の中央には棺台がしつらえられ、墓室の内側は漆喰が厚く塗られていた。
棺には布を何枚も漆で貼り合わせた夾紵棺(きょうちょかん)がもちいられ、なかに60歳前後の男性人骨がほぼ完全に残っていた。錦の衣服をまとい、ガラス玉製の枕をして、棟から頭にかけ金糸が散らばっていたことが知られている。
墓室は昭和9年に偶然発見され、「貴人の墓」として反響を呼んだが、出土品は調査後まもなく埋め戻された。
被葬者については発見直後から飛鳥時代の大豪族である藤原鎌足をあてる説がある。おもに鎌足を三島の関係を語る伝承にもとづくものであった。昭和62年には人骨のX線写真の検討から生前の体格や死亡時の状況があきらかになった。また絹製の冠や玉枕も復原され、それが7世紀後半の最高位者に贈られた冠にあたるとして、669年に没した大織冠藤原鎌足の墓とする説が再び脚光を浴びている。しかし高位の冠はほかに検証例がなく、墓域から出土した土器から古墳の年代は7世紀前半とかんがえられることなど、被葬者の特定はなお今後の研究に委ねられている。
阿武山古墳は数少ない飛鳥時代の墓制を示す貴重な古墳として国の史跡指定を受け、永久保存がはかられている。
平成元年3月15日
文化庁 大阪府教育委員会 茨木市・高槻市教育委員会

 

径82mの円形プランですが、もともと盛土がない、希な造りのようです。

墓室の構造
墓室内寸は幅1.1m、奥行2.6m、高さ1.2m。棺は長さ203㎝、幅68㎝、高さ58㎝をはかる。地面を約3m掘り下げて墓室をつくり、全体に土をかぶせて塼でおおい、南側から棺をおさめたのち元の高さまで土を盛っている。

玉枕
紺色と緑色の大中小約600個のガラス玉を1本の銀線で連ね、錦で包んであった。

夾紵棺
棺の外側は黒漆、内側は赤漆塗り。被葬者の身長は推定約164.6㎝で、当時としては長身の人であった。

 

埋葬施設があった辺りが柵で囲まれています。

 

この地下3mに埋め戻されているのですね。

 

柵の中の様子。

 

背面側から。

 

墓室の前あたりからは、京大地震研究所の塔屋部分が見えました。


下りは笹薮の間の道を降りました。

 

検索すると、高槻市のサイトにて、復元された玉枕などの写真が見られました。

史跡阿武山古墳 - 高槻市ホームページ