池谷駅からは、天河神社古墳群のすぐ西側にある萩原墳墓群へ行ってみました。
川北街道から北への枝道はこんな感じで細いです(背面側の路肩・歩道は幅広)
枝道を上がると説明板。弥生時代終末期の積石塚で、奈良のホケノ山古墳との関係が考えられるとのこと。
国指定史跡 鳴門板野古墳群
萩原2号墓
平成28年(2016)10月3日指定
鳴門板野古墳群とは
鳴門板野古墳群は、鳴門市から板野町にかけての阿讃山脈の麓に築かれた、弥生時代終末期から古墳時代前期(3世紀初頭~4世紀末)の古墳の総称です。弥生時代終末期には、石を積み上げた墳丘をもつ積石塚を造りますが、古墳時代前期になると土を盛り上げた古墳を造るようになります。また、亡くなった有力者を埋葬する竪穴式石室の構造や、銅鏡・鉄器などの副葬品、古墳の表面に並べられた埴輪の特徴は、当時の政治的な中心地であった畿内地域との強い関係があったことを示しています。こうした特徴を備える鳴門板野古墳群は、四国東部を代表する古墳群の一つであり、当時の社会を知ることができる重要な遺跡として評価されています。
萩原2号墓について
萩原2号墓は、標高43mの南北方向の尾根上に築かれており、直径21mの円丘部に長さ5.6mの長方形の突出部が付いて、全体が石を積み上げて造られている墳丘墓です。発掘調査によって、円丘部の中央には、長方形の石積みの低い壁と木組みの壁(積石木槨)に囲まれた中に箱形木棺が安置されていたと推定され、2号墓の南側で過去に発掘調査が行われた萩原1号墓とほぼ同じ造りであることもわかりました。この積石木槨は、奈良県のホケノ山古墳で見つかった埋葬施設の造り方と似ており、地域間の関係があると考えられています。なお、2号墓の木棺のあった場所からは、銅鏡片(内行家文鏡)が発見されました。築造時期は出土した土器などから弥生時代終末期(3世紀初頭)とみられ、のちの古墳時代前期にかけて、竪穴式石室や前方後円墳の成立に影響を与えたと考えられています。
鳴門市教育委員会
そのそばに、ルートが整備されていました。ありがたいです。
安心して登っていけました。
丘の上に萩原2号墓。一面に石が転がっています。
天井石的な石材も。
墳丘の北側。マップ上ではこの先に萩原4号墳のピンが立っていますが行ける感じでは無く。
振り返った南側。
南側の突出部あたり。
樹木の間から徳島平野を。
北島北公園総合体育館 (YGKドーム)の白屋根が見えますね。
徳島県のサイトで、埋葬施設の様子や内行花文鏡破片の画像が見られます。
こちらの、すえドンさんのブログに、かつて開催された現地説明会が紹介されています。
降りてきて2号墓があった丘陵を。1号墓のピンが立つのは右の白い車のあるあたり。
(2023年10月中旬訪問)