墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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小丸山古墳 島根県益田市乙吉町

小丸山(こまるやま)古墳はスクモ塚古墳の南1.8㎞ほど。益田川右岸で東から延びる舌状台地の先端(山陰本線で切通されていますが)

益田駅から徒歩30分圏内です。

 

グーグルマップの誘導で、丘の北側の住宅地から墳丘の東麓へ。

道路は行き止まり、斜面上が墳丘でした。

 

上がって行くと、シルエットの整った墳丘が出現。

 

右裾側から。周溝や周堤も丁寧に復元されています。

 

スマホ広角で。

 

前方部正面側から。

 

現地説明板。

小丸山古墳
この古墳は前方後円墳です。益田平野を一望する山頂に立地しています。古墳時代後期の6世紀の初め頃につくられたもので、この地方を支配した首長の墓と考えられます。
墳丘の全長は52m。石見地方では市内久城町の国史跡スクモ塚古墳(全長100m)、遠田町の大元1号墳(全長89m)、浜田市の周布古墳(全長67m)に次ぐ第4位の前方後円墳です。大きな特徴は、古墳の周囲に周濠と外堤を備えていることで、このような古墳は県内では唯一です。
益田市ではこの貴重な遺跡を保存し、郷土の文化と歴史を学ぶ資料とするため、平成4年度にふるさとづくり特別対策事業により復元しました。復元は発掘調査の成果にもとづき、奈良県の市尾墓山古墳の復元を参考に築造当時の規格性を推定し、現存する古墳部分を保護しながら復元しました。
所在地:島根県益田市乙吉町

主な出土品
これまで4回の発掘調査で珠文鏡、馬具の一部である馬鐸、鈴杏葉、辻金具や須恵器、鉄刀、鉄斧などが発見されました。

珠文鏡:直径7.3㎝の小さな突起文様(珠文)がある国産の鏡です。
馬鐸:馬の胸に付ける飾りで、3個体分発見されました。青銅製品で馬が歩くとき音がでます。県内では出雲市の大念寺古墳、浜田市のめんぐろ古墳でも出土しました。
鈴杏葉:馬の尻につける飾りで、3個体分発見されました。3個の鈴が連結した青銅製品でやはり音が出ます。山陰地方では初めての出土です。

 

さあ墳丘へまいりましょう。

 

前方部先端に上がって振り返って。

 

復元整備されて30年ほど経ていますが、美しい状態です。


前方部から後円部を。

 

後円部墳頂の様子。

 

北方向に樹木が切れた部分がありましたが、海までは見通せませんでした。


後円部から振り返った前方部。

 

後円部斜面の階段を降りて、東側裾へ。

 

くびれ部のあたり。奥が前方部。

 

こちらは前方部先端から見えていた、あずま屋。

 

そこからの墳丘。

 

墳丘の西側。地形的にはこちら側を平地に向かって”見せつけていた”と思われます。

 

降りる径があったので行ってみます。

 

その途中で木々の間から見えた平地部。かつては海が入り込んでいたかもですが。

 

そのすぐ下へ階段を降りると、なんと雪舟の墓がありました。

 

雪舟は古墳のことを知っていたのでしょうかね。

益田市指定文化財
雪舟の墓
指定 昭和46年6月21日
雪舟は室町時代の禅僧でる。応永27年(1420)に備中に生まれ、幼くして京都相国寺に入り、周文から画法を学んだ。その後、山口の大内氏の庇護を受け、明に渡り中国の画法をも学 んだ。山口や豊後府内、そして益田などで製作活動を行い、 日本の水墨画を大成した。没年は文亀2年(1502)説、永正3年(1506)説がある。死没地については雲谷庵(山口市)説、重玄寺(岡山県井原市)説があるが、石見益田の東光寺(現在の大喜庵の前身)説が有力視されている。 
益田家には雪舟筆の益田兼堯(かねたか)像が伝わっている。また萬福寺や医光寺(崇観寺の後身)の室町時代の庭園は雪舟が築いたとされる。「牛庵 (益田元祥)一代御奉公之覚書」(「益田家文書」)によると、「雪舟は初め防州山口大内家に居り申され候、老い極まり喉て石見の益田へ罷り越され、 彼の地において落命仕り候」とあり、また益田家は多くの雪舟作の絵画を所有していたようである。 
現在、大喜庵の背後に残る雪舟の墓は、江戸時代中頃の宝暦年間(1751~64)に乙吉村庄屋金山太右衛門の援助を受けて、佐渡の浄念によって墓石が改築されたものである。すでに雪舟の死没地として、その顕彰が行われていたことがわかる。二段の石積基壇上に乗る石龕に、旧墓と思われる宝篋印塔の相輪部分が納められている。また医光寺には雪舟灰塚も残る。
平成26年3月 益田市教育委員会

 

そのすぐ先が、上記の「大喜庵」でした。

 

隣接して「雪舟の郷記念館」がありますが定休日。