墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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西福寺古墳群 熊本県山鹿市城

前回のオブサン古墳からチブサン古墳へ行く前に、すぐ北側の西福寺古墳群の様子を。

下図は右上が北、オブサン古墳は右下の東方向で、そこから少し上がった台地端になります。

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西福寺古墳群
この古墳群は、平小城台地の東斜面に所在し、石・大原間の旧道がこの中を通っている。「古代への道」から「古墳の森」にかけて、方形周溝墓や箱式石棺が密集し、古墳時代の一大墓域を形成している。これらの遺跡のほとんどは、風土記の丘整備事業により発見されたものである。
平小城台地の東端の崖下には、戦国期に栄えた中世寺院跡があり、この一帯の字名が西福寺とよばれるため、字名を冠して西福寺古墳群と命名した。主な遺跡としては、方形周溝墓(2基)、古墳(1基)、箱式石棺(12基)などがある。
1号方形周溝墓は盛土がなくなっていたが、土橋は南側にあり、内部主体は木棺であったと考えられる。2号方形周溝墓には盛土が残っており、内部に石棺の棺材が残存し、周溝内から古い形式の土師器(壺)が2点出土した。
12基の石棺は、鍋田石(地元産の凝灰岩)の割石を使用した粗雑なつくりの箱式石棺で、古墳時代前期末頃から中期にかけたものと考えられる。各墳墓は、前期の方形周溝墓が一番高い所にあり、その周囲の一段低い所に箱式石棺群、西福寺1号古墳、さらに低い斜面の裾部に後期のオブサン古墳(県指定史跡)やチブサン古墳(国指定史跡)が位置し、古墳時代における墓制・立地の変遷を知ることができる。

 

北端の駐車場のすぐ脇にあった石棺墓。

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こちらは益城町から移設された石棺墓。

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秋永遺跡第5号石棺(上益城郡益城町出土)
益城町の秋永遺跡から出土した箱式石棺である。街が昭和42年、秋永に工場を誘致した際、その敷地予定地より7基の箱式石棺が出土した。この5号石棺内部には、全面丹が塗られ、棺床には木炭が敷き詰められていた。副葬品は鉄剣一振りが出土している。構築年代は、棺の形式等から古墳時代前期と推定される。

 

こちらは鹿央町(かおうまち)から移設された浦大間(うらたいま)石棺。

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浦大間石棺(鹿央町上千田出土)
出土地は、鹿央町字上千田浦大間の台地で、過去に舟形石棺数基が発見されている所である。
棺身は長さ2m、幅0.7m、深さ0.67m。軟弱な凝灰岩製の板石を組み合わせた家形石棺である。蓋石は、内部をくり抜いた一枚石からなり、両末端には縄掛突起が設けられている。内部全面に朱が塗られ、人骨と共に竹製の櫛4個、ガラス小玉数個、木製の鞘に納まった鉄剣一振り等の副葬品が発見された。また棺外には、木の柄を着けた刀子1個が埋納されていた。
構築年代は、古墳時代前期と推定される。

 

山鹿市から移設の舞野2号石棺。

舞野第2号石棺(山鹿市平山舞野出土)
凝灰岩の割石を組み合わせてつくった、箱式石棺である。凝灰岩は内面のみ調整しており、間隙は、粘土で目張りをしている。蓋石は3枚残っていた。長さは2.1m×0.8m・内法の長さ1.67m×0.35m・深さ0.27m、床面には粘土を敷き、北側を高く盛って枕をつくっている。石棺の北と南を、それぞれ頭位とする人骨が2体分埋葬されていた。北側の頭骨部分には丹塗りの粘土枕をつくり、横からは、小型仿製鏡(重圏鏡、直径4.2m※ママ)が出土している。古墳時代の前期につくられたものである。

 

こちらはもともとこの場所にある西福寺第2号方形周溝墓。古墳時代前期と推定されています。

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墳頂から。周溝も判るようになっています。

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西福寺第2号方形周溝墓
一辺が12.5mの方形周溝墓である。首位を巡る周溝は、幅2.3m、深さ約0.8m前後で、東側周溝の中央部には、幅2.5mの土橋(入口部)が設けられる。
調査時には、周辺表土よりの比高差0.8mほどの残丘が存在しており、盛土の高さの推定を可能にさせた。盛土中央から加工された板石状の凝灰岩片20点ほどが出土し、内部主体は箱式石棺であったことがわかった。
また、南側と西側の周溝底からは、土師の壺が出土しており、築造年代は古墳時代前期と推定される。

 

方形周溝墓斜面の様子。

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この古墳時代中期の舟形石棺は山鹿市から。

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竜宮石棺(山鹿市小原竜宮出土)
昭和41年、小原地区の開田工事中に発見され、山鹿高校考古学部が調査した。棺身と棺蓋からなる凝灰岩製の舟形石棺で、内部に枕の施設や、赤色顔料の塗布は見られない。棺側外面には舟べりがあり、両棺端には、棺蓋・棺身共に短い縄掛け突起を持つ。棺身横断面での外底部は、船底状に尖り、内底部は鍋底状に丸味を持つ。菊池川流域での舟形石棺の発見場所は30数か所を数え、当地方を中心とする特異な古墳文化財を形成している。副葬品はないが、構築年代は古墳時代中期と推定される。

 

車道沿いには西南戦争関連の碑が残っています。

 

山鹿市立博物館からの見学路にあるこちらの墳丘、破壊されていた西福寺1号墳(円墳)の復元墳丘だったようです。

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墳丘の中心が見学路のトンネルに…

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墳頂からトンネル開口部を。

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現地では実際の墳丘であったのかどうかは良くわかりませんでした。

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西福寺古墳群
熊本県山鹿市大字城字西福寺
この森の中から、方形周溝墓、石棺群などが見つかり、「風土記の丘」の一環として整備した。
また、県内の各地から出土し、移転保存されていた各種の石棺を野外展示した。