墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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藤山古墳、大井陵墓参考地(尊真親王墓) 愛媛県今治市大西町宮脇

妙見山古墳からの眺めを堪能して、藤山健康文化公園に降りてきました。

公園にある、今治市大西藤山歴史資料館。

残念ながら16時で閉館でした。古墳に上がる前に行っていればとも思いましたが、これも縁だと思います。再訪します!

大西藤山歴史資料館 | 収蔵品・所蔵品 | 今治市 文化振興課

1号墳の復元埋葬施設が見られるようです。

 

資料館の前からの広場と、桜の丘。

 

散り際の桜も見事でした(2023年4月8日探訪)

 

その丘の頂にも墳丘が。

 

「古墳 藤山古墳」の標柱があります。

 

説明板も。

藤山古墳
藤山古墳(円墳)は藤山の丘にある。明治36年(1903)新居田良吉氏が麦畑作業中偶然掘り出した。地下約50㎝の所に青石製臥棺縦75㎝横約60㎝の中に朱及び辰砂で密閉され仰向けに安臥した人骨が納められていた。副葬品は平面丸型銅鏡一個、鉄剣一個であった。
大西町教育委員会

 

藤山古墳のすぐ隣にも、柵で囲まれたエリアが。

 

その説明板。室町時代元年のお墓とのこと。

大西ふるさとこみち
①尊真親王の墓
延元元年(1336)11月、後醍醐天皇の皇子、尊真・満良・懐良の三親王は、南朝方の勢力拡大のため、大館左馬介氏明、篠塚伊賀守ら40余人を従えて大井浦に着いた。伊予の国守河野通政はこれを迎えて、御座所大井寺に入ることになった。
延元元年12月19日夜、北朝方将兵の不意打ちにあい、供奉の将兵の多くは討死し、尊真親王も負傷した。
その後、満良親王は浮穴郡へ、懐良親王は筑紫へわたった。尊真親王は大井寺において四条少将の守護のもと、阿波、讃岐、両国の北朝方勢力を除こうとしたが弱体のため果たせず、延元3年(1338)3月8日亡くなり、なきがらは藤山へ埋葬、みたまは大井八幡社へ合祀したといわれている。
大西町教育委員会

 

いつもの高札も。

 

囲いの内側の土盛り。

 

位置は妙見山古墳の北西400m弱。

 

墳丘を南斜面下から。左が尊真親王墓、右奥が藤山古墳。

 

その斜面には散り際の桜。


そこから見上げた、妙見山古墳が立地する丘。