墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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善応寺古墳 愛媛県松山市善応寺

今治市の妙見山古墳を見学した後は、高縄半島の西側へ移動して松山市の善応寺(ぜんのうじ)古墳へ。

グーグルマップを見ると、半島に沿って瀬戸内航路が続いていることがわかります。

山の中のルートで誘導されたので途中で海は見なかったですが。

 

古墳は、奥道後カントリークラブがある丘陵の南西端、河野川(こうのがわ)右岸の立地。古墳への枝道には「河野塚」の標柱がありますが、この時点では河野塚=善応寺古墳とは分かっていませんでした。

 

その前の道路に停めさせていただきました。左が河野川、奥が下流(西)方向。

 

枝道脇のお宅で日向ぼっこをされている家主の方に古墳の場所をお聞きして、「河野塚」へ。

石垣が崩れた場所を足早に通り抜けて。


その先で左の落ち葉の道を登ります。標柱のおかげで迷わずにすみました。

 

少し登ると神社の建物が見えてきました。

 

真ん中に通り道のある拝所。

 

善応寺古墳の説明板も。

善応寺古墳 一基
松山市指定史跡
昭和49年6月10日指定
丘陵斜面の南西に開口している両袖式の横穴式古墳である。内部は玄室と羨道に区分されている。石室内には河野神社の祠が祀られ、河野塚とも呼ばれる。
玄室の規模は奥行4.8m、幅2.2m、高さ2.8mで、天井には4枚の巨石が並べられている。羨道部は、安政2年(1855)4月の娑婆池(現、大正池)の修築、また後の河野神社建築の際に多数の石が取り除かれたため、現在奥行2.8m、幅1.2m、高さ1.9mを残すだけである。出土品は、人骨、土器、鏡、刀剣などが発見され、松山藩へ差し出したと伝えられるが残っていない。
平成13年(2001)3月に羨道部の補修工事を行った。
松山市 松山市教育委員会

 

拝所の奥に開口部。

 

柵は卒塔婆?

 

傾いた柵の間から。見事な玄室でした。

 

床には逆さになった祠の屋根でしょうか。

 

松山市のサイトには壊れる前の写真が載っています。

善応寺古墳(通称・河野塚) 松山市公式ホームページ PCサイト

 

柵の前から振り返って。江戸時代に石が取り去られる前はここも玄室内だったのでしょうが、自然な形に修築されていると思いました。

 

開口部を横から。

 

拝所の前はピンクの絨毯でした。

 

一部は深紅。

 

木々の間から善応寺の集落。お寺は川向こうの丘陵先端です。

 

とても静かな場所でした。