墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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小口山古墳 大阪府羽曳野市軽里

峯ヶ塚古墳を見た後、峰塚公園の西の丘上にある小口山古墳を訪ねました。

 

公園を一旦出て、北側の竹内街道を上りました。竹内街道は坂の途中で北(右)に折れていきます。

 

それとは逆に左(南)の枝道に入ってさらに登ると、峰岸公園の木立が。

 

上記を左折して再び園内に入り、最頂部を目指します。

 

その手前の解説板は、広範囲をカバー。

峰塚公園周辺の文化遺産
■古市古墳群
4世紀末から6世紀前半までの約150年間にわたり、現在の羽曳野市・藤井寺市・松原市にかけての東西5㎞、南北4㎞の範囲に、応神陵古墳・白鳥陵古墳などの巨大な前方後円墳をはじめとして、帆立貝形古墳、方墳、円墳など、大小100基以上の古墳が造られ、「古市古墳群」が形成されます。
古墳はいずれも高い台地の上に造られ、造営には最新の土木技術を用い、多くの人々が動員されました。また、副葬品には鉄製品(武具・農工具・馬具)が多く、当時の大王権の大きさを物語っています。
■白鳥陵古墳
全長190m、後円部直径106m・高さ21m、前方部幅165m・高さ24mの大型の前方後円墳です。周囲には幅40~80mの濠をもち、「日本武尊の陵墓」との伝承が残されています。
■日本武尊「白鳥伝説」
「景行天皇の皇子・日本武尊は、全国統一のために遠征し勝利を収めますが、帰途、病に倒れて伊勢の能褒野(三重県亀山市)に没します。その後、白鳥と化して飛び立って日本武尊は、大和の琴弾原(奈良県御所市)、河内の旧市邑(ふるいちむら:羽曳野市)に降り立ち、この3ヵ所に陵墓た造られた」と、日本書紀に記されています。
また、白鳥神社(古市)の縁起には「さらに白鳥は舞い上がり、埴生の丘を羽が曳くがごとく飛び立った」とあります。この白鳥のはばたきの如く、市の雄飛と発展を願った「羽曳野」という市の名称は、この白鳥伝説に由来しています。
■峯ヶ塚古墳
全長96m、後円部直径56m・高さ9m、前方部幅75m、高さ10.5mの前方後円墳で、周囲には二重の濠をもち、5世紀末から6世紀初頭に造られた大王陵級の古墳とされています。後円部中央で発見された石室からは、金銀で飾られた大刀のほか、魚はい、花形飾り、三叉形垂れ飾りなど雌らしい副葬品が多数出土しています。
CN40周年記念 羽曳野ライオンズクラブ寄贈

 

振り返ると目の前に、こちらに前方部を向ける峯ヶ塚古墳。その右奥には軽里大塚古墳(白鳥陵古墳)

 

ズームすると白鳥陵のすぐ右奥、マンションの間に安閑天皇陵(高屋築山古墳)も。

さらに右奥には二上山。方角は東を向いています。

 

東北東の方向。右の緑が峯ヶ塚古墳の前方部左裾。

茶色のビルの先の緑は、墓山古墳と誉田御廟山古墳とが重なっていると思われます。

 

公園の最頂部へ。

 

最頂部にあったのは、石室石材でしょうか?

 

その左(西)に、小口山古墳が開口していました。

 

説明板完備。

羽曳野市指定史跡
小口山(こぐちやま)古墳
所在地:羽曳野市軽里2丁目
指定:平成19年3月30日
小口山古墳は、飛鳥時代の古墳、あるいは終末期古墳といわれる古墳です。直径約14mの円墳で、墳丘の北・東・西側には原地形を掘り込んだ掘り割りがあります。
埋葬施設は、横口式石槨と呼ばれる一体の遺骸を納めるものです。大きな直方体の凝灰岩を刳り抜き、外側上部の周囲を斜めに削って屋根のような形に仕上げています。南方向に開口して、別石材で閉塞していたと考えられます。石槨底下部には、板状の凝灰岩を3枚敷き並べています。石槨の外側には、石英安山岩を用いて横穴式石室のような施設を構築しています。
また、塼(せん)と呼ばれるタイル状の土製品が出土しており、石槨や羨道の床面に敷かれていた可能性があります。横口式石槨の形状等から、7世紀後半に築造されたものと考えられます。
羽曳野市

 

美しく刳り抜き加工された石槨です。

 

内部もぴしっと。


説明板の写真をアップで。

 

そのすぐ南東に小口山東古墳のピンが立っていますが、位置は特定できませんでした。

 

古墳王子さんのツイッターで貴重な情報を知りました。