鹿島神宮拝殿に参拝後、次の電車までもう少し時間があった(香取方面は、11時23分発の次は13:23分発) ので、鹿島神宮の西側の丘上にある鹿島城址へも行ってみた。
門前の通りの坂を下って、再び島状の丘を上がっていく。
途中道路の左右を見ると、深い堀を渡っていた。
城跡は桜が沢山植えられた公園となっていた。
鎌倉時代初期から江戸時代直前までの400年間も、鹿島氏(常陸大掾氏氏族)の居城があったそう。
史跡 鹿島城(別称 吉岡城)址
鎌倉時代初期約800年前の昔から、室町時代の天正19年(1591)に佐竹氏によって落城するまでの約400年間、この城は鹿島氏(常陸大掾氏氏族)の居城であった。
永正の終りの頃(1520年前後)義幹(よしもと)が大改造をおこない、それが高天原合戦(内紛)につながったと鹿島治乱記はいう。
現在本丸跡が城山とされ、二の丸他は県立鹿島高等学校、新町の区域などになっている。
昭和59年の発掘調査によって、治乱記でいう萱葺きの痕跡や、地鎮等の祭祀的遺物、墨書土器等も出土した。
城主後裔の鹿島家の協力を得て昭和63年より城山公園として開園。毎年整備を進めて四季を楽しめる場となった。特に桜やつつじの頃は市民の散策する姿が絶えない。
歴史にのこる鹿島城(鹿嶋市文化財愛護かるたより)
鹿嶋市教育委員会
縁の土塁跡上に園路がある。
園路から北側。谷にある市街地の向こうの緑は、宮中野古墳群があった丘。
園路上を回り込んでいくと、北浦も見え始めた。
さらに進むと、北浦にかかる鹿島線や国道51号の橋も見える。
長~い橋梁をズームで。
その先にあった、「神の道」の解説板。
鹿島城址
鹿島城は今から約800年前の平安時代の終わりごろ、平国香の子孫である鹿島三郎政幹が、養和元年(1181)源頼朝より総追捕使(そうついぶし)に任命されてから、ここに城を造り、以後鹿島を支配しました。それから400年たった天正19年(1591)、鹿島清秀父子は常陸太田の佐竹義宣に謀殺され、鹿島城は落城、歴史の幕を閉じました。その櫓、佐竹氏は秋田へ国替えを命ぜられ、徳川家康は鹿島氏の一族を総大行事職に任命し、鹿島神宮の要職に就かせました。
本丸跡には、「鹿島城跡記念碑」が建立されており、城山公園として整備され、桜の名所として市民に親しまれる場所になっています。
北浦湖畔の朱塗りの一之鳥居を望むことができます。
2014年5月25日 鹿嶋神の道運営委員会
鹿島城址記念碑の詳細な解説板も。
全部桜の木のようです。満開時はとっても映える小径でしょう。
この広場も桜の天井になるのでは。300本以上の桜で、有名な花見スポットだったのですね。
鹿島神宮駅に戻ってきました。
スイカはタッチするポイントがありますが自動改札は無し。有人改札のボックスがまだいくつも残っています。
車窓からの北浦。鏡のように穏やかな湖面でした。