墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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新城古戦場 長崎県壱岐市勝本町新城東触

今回、古墳の他にも古戦場を訪ねてみた。 

 

新城古戦場は、元寇のとき(文永の役)の古戦場。

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日本史では元寇をしのいだことになるが、この島は蹂躙された。 

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文永の役 新城古戦場
長崎県指定史跡
昭和50年(1975)1月7日指定
鎌倉時代の蒙古襲来(元寇)の時、壱岐島にも元軍が上陸し、暴虐のかぎりをつくした、と伝える。文永11年(1274)10月14日、浦海海岸に上陸した元軍は守護代の館(樋詰城、現在の新城神社)へと向かう。守護代平景隆を首将とする百余騎の武者が元軍を迎え討ち、各地で戦ったが庄ノ三郎ヶ城の前の唐人原で大敗し、樋詰城に退き、翌15日、全滅したという。
文永の役での元軍との戦いは主に勝本町域内で行われた。これを裏付ける伝承地として、元軍の上陸地(浦海、馬場崎、天ヶ原)、古戦場(浦海、射矢本、勝負本、火箭野辻、火山、勝負坂、射場原、高麗橋、唐人原、対陣原)、城(樋詰城、庄ノ三郎ヶ城)、多くの遺体を一か所に埋めた千人塚(浦海、本宮西、火箭野先、天ヶ原、射矢原、新城)、元軍から身を隠した人穴(古坊、新城)、平景隆の墓、姫御前塚などがある。
数多くの伝承地の代表として、ここ新城千人塚の地を文永の役古戦場とし顕彰している。 

 

上記の説明には千人塚が5箇所、記されている。

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長閑な春の日。 

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