墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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大塚原古墳(弘文天皇妃耳面刀自陵墓) 千葉県旭市大塚原

前回の内裏塚古墳の3.5㎞北東にも、同じく弘文皇子妃の墓があった。

マップ上には陵墓とあるが宮内庁管理ではなく、集落の中に馴染んでいるように感じられた。

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詳しい解説。

耳面刀自媛(みみものとじひめ)は藤原鎌足の娘で、壬申の乱を逃れて父の出身地鹿島へ赴く途上で病に倒れたとのこと。

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旭市指定史跡
大塚原古墳
昭和52年1月25日指定
近江国(現在の滋賀県)に都のあった近江朝廷時代、「大友皇子」(後に弘文天皇と贈り名)軍と「大海人皇子」軍が対立する壬申の乱(672年)が起り、敗れた「大友皇子」は近江国で自ら死を選んだ。
伝承では、大友皇子の妃「耳面刀自媛(みみものとじひめ)」は戦乱から逃れて、従者「中臣英勝(なかとみのあかつ)」らを従え海路を父「藤原鎌足」の出身地鹿島に赴く途中、九十九里海岸に漂着され病にかかって薨去されたという。
妃は内裏塚(現在の匝瑳市野手)に葬られ、従者たちは椿の海近くで亡き妃を偲びつつ農耕生活を送ったという。後に浪荒い海岸からここ大塚原に改葬し、その霊を慰めるため近くに内裏神社を創建したという。
このことは長い間、村人たちによって語り伝えられ尊崇され、内裏神社では33年毎に大祭を行い、最近では平成15年に大祭が盛大に行われた。
明治24年、風雨で墳丘が崩壊した時に、従者中臣英勝の名を刻んだ石板、及び人骨、数点の土器類が出土したが、その時は学問的な調査もされず埋め戻された。
昭和46年11月、改めて大塚原古墳の整備を行い、その際、出土した甕の中からいくkつかの人骨を発見した。千葉県教育委員会、旭市教育委員会、大塚原、泉川、川口の地元関係区、内裏神社氏子などによって、人骨を新潟大学医学部に鑑定を依頼した。その結果、長い歳月を経てきたため細片化し、体数、性別など明確でなかったが、中に後期の人の埋葬に使用したと思われる朱の付いたか細い骨片が発見された。
長い間の伝承と石板、及び出土人骨の朱から、ここは弘文天皇妃や従者中臣英勝らを埋葬した墳墓と考えられ、「弘文天皇妃耳面刀自媛之陵墓」とした。
令和元年7月 旭市教育委員会 

 

鳥居の立つ”墳丘”は周囲から1mほど高い。

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上がったところに石碑。 

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古い石碑も。

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墳頂から西側を。

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その西側に降りて、振り返って。

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周囲を歩いてみます。

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立派な生垣の集落。

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左の生垣が高さ4mくらいでしょうか。手入れが大変そうですが素晴らしい景観を生み出しています。

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生垣を背に墳丘を。

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次は7㎞北上して、鏑木古墳群を目指しました。

途中に広がっていた低地はかつて椿海と呼ばれ、江戸時代に干拓された低地。

田植え直後の気持ちの良い景色を堪能しました。

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