沖縄滞在最終日は、首里城の北から南へ、アップダウンの多いルートを歩いてみた(写真多めです)
最初に目指したのは末吉宮跡。
ゆいレールで首里へ向かう際、首里駅の手前左手に広がる緑のエリアが気になっていた。
「市民病院駅」で降りてホームからそのエリアを見る。朝8時前。
ホームの端から那覇方向。かなりの急こう配。
駅を出て、歩道橋の上から。
安謝川が流れる谷へ一旦降りる。
あたりは住宅地。
安謝川にかかる橋を渡る。橋から上流方向。
住宅街を適当に歩いていくと公園入口が。
末吉宮跡へ上がる道を探して遊歩道を上がっていく。振り返った先にモノレールの軌道。
玉城朝薫生誕300年記念碑があった。「組踊」の創始者だそう。
https://www.naha-contentsdb.jp/spot/520
そのすぐ西側に、丘上への石段があった。
石段の先は古道の趣。
案内表示が無く、グーグルマップにも示されない道だったので、末吉宮跡に近づいているかを確認しつつ上る。
その先に「史跡 末吉宮跡」の石碑があって一安心。
ルートは旧道と迂回路に分かれていた。もちろん旧道を選択。
傾斜の急な石畳道。
数世紀前から変わらない雰囲気では。
ほどなくして末吉宮跡に到着。
自然の岩を基礎に石垣で固められている。
拝殿の下をくぐるトンネル。
振り返ると普段は無人の社務所。
その隣に説明板があった。
史跡 末吉宮跡
昭和47年5月15日 国指定
末吉宮は「末吉社壇」の名で沖縄県民に親しまれたお宮で、室町時代中期に建立されたものです。波上、沖、安里八幡、識名、普天間、金武、天久とともに琉球八社の一つにあげられている近くの万寿寺(現遍照寺)の鎮守として熊野権現を祀ってあります。
本殿は沖縄の地方色をよくあらわしている三間社流造本殿として昭和11年国宝に指定されましたが、第二次大戦で砲撃を受け、建物の礎石と柱二本と虹梁(頭貫)を残したのみで飛散しました。現在の建物はこれら残った礎石と資材を基に昭和47年に復元修理をしたものです。(後略)
文部省 沖縄県
那覇市のサイトにも詳細が。
末吉宮は、「琉球神道記」(1648年)などの史料によると、尚泰久(しょうたいきゅう)王のころ(1454~60年)、鶴翁和尚(かくおうおしょう)が熊野三所権現を迎え、まつったのが始まりと伝えらるそう。
1997(平成9)年に、本殿の補修工事及び彩色復元塗装工事、1999(平成11)年拝殿が86年ぶりに復元された。
https://www.naha-contentsdb.jp/spot/687
トンネルを逆サイドから。
拝殿を正面から。
石段に上がるのは禁止されている。ウコールは香炉の意。
宙に浮くように柱で支えられた社殿。なぜこんなに高く?
石段下の”テラス”からは、那覇市街が遠望できた。
左端がヒルトン那覇首里城、中央はノボテル沖縄那覇。
おもろまちのツインタワーマンション。
社の裏側にさらに上へ登る道があった。
急な階段で、谷越えの石橋もある。
そのすぐ先には鳥居があり、北側の住宅地へ抜けられるようになっていた。
そこから出る前に、神社の裏手も巡ってみた。
参拝者へのお願い書き。
前出の那覇市のサイトには、「神社の周りの森には、イベと呼ばれる聖地が転々とあり、境内地が古くから信仰の対象として、崇められてきた様子が伺える。」ともあった。
御嶽の中心にある石碑をイベあるいはイビ石というようだ。
「子ぬ方(にぬふわ)入口」とあるほうへ。「子」は北を意味するとのこと。
十字架のある亀甲墓。
その先のお墓。
その先には「最高拝所」の表示があった。
そこからの遠望。
木々の間から首里城側も少し見えた。
自然石(穴?)が拝所になっているような場所も。
その先にも小径があったが、ハブが怖いので引き返した。
鳥居まで戻って外へ。
ズームすると海も見えた。
そのまま進むと末吉宮「大名入口」
閑静な住宅街にある。
大名は「おおな」という地名。
庭先の花。
グーグルマップに従って、坂を下る。
また上る。
その先に首里城があった。