墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

真珠道(まだまみち) 沖縄県那覇市首里金城町~繁多川(はんたがわ)

前回の玉陵から識名園へは一旦丘を降りて再び上るルートになる。徒歩30分超。

 

はじめに金城町の石畳道に入る。

 

壁の角度も、くねり方も良いが、急な傾斜で下るのもきつい。

 

振り返って。手前の電柱は傾いている。

 

金城村屋を過ぎて振り返って。

 

車道を渡って金城橋を越える。

 

金城橋と識名平(カナグスクハシとシチナンダ)の説明板があった。「平」と書いても「坂」の意と知った。

金城橋は、琉球王国時代、首里・識名台地の間を流れる金城川に架けられた橋である。橋の創建年は不明。1677年に木橋から石橋に建て替えられた(「金城橋碑文」建立)が、1809年の洪水により損壊。翌年元の位置から少し下流に再建され、橋の南側に「重修金城橋碑文」の碑が建立された。1945年の沖縄戦により橋も碑も破壊されたが、現在残っている碑の残欠は、1985年の橋改修の際に、橋の北側に移設されたものである。
識名平(シチナンダ)は、金城橋から識名に至る坂のことで、呼称は方音の「シチナノヒラ」が転訛して「シチナンダ」となり、さらに坂の意味を加え「シチナンダビラ」ともいう。かつては松並木の続く石畳の坂道で、王家の別邸「識名園」に通じ、また、首里から島尻方面に至る幹線道路の一部でもあった。
その他、この付近は、かつて金城川を遡って船の往来があった頃、宮古の人々が
海上安全を祈願して川岸の洞窟に魚の形を刻んだという伝承から「魚崎原(イユサチバル)という地名や、川に身を投げた夫婦の怨念が人魂となって、坂の上から川岸まで漂うという「識名平の遺念火」の伝承が残っている。

 

今度は10%の登り。

 

登り切って振り返る。

 

そこにあった説明板。

繁多川(はんたがわ) 字指定文化財
真珠道(まだまみち)
首里城守礼門東南脇の石門を起点として金城町、シチナンダビラ(識名平)メーミチー(前道)、ムラグヮー(村小)シードゥビラ(勢頭坂)識名を経て、真珠港(国場川河口、那覇港)にいたる約4㎞の石畳道である。この真珠道の建設は、今から487年前 尚真王代(1477~1526)の重要な土木事業であった。
平成21年11月17日 繁多川自治会 

 

その先で振り返ると歩道脇にもう一枚、説明板があることに気づいた。 

 

「真珠道(まだまみち)の石畳」の説明だった。

ここの歩道に埋め込まれている130個余の琉球石灰岩は平成30年(2018)4月中旬那覇市の道路改修工事中に見つかった約500年前の「真珠道」の石畳の石です。「真珠道」は尚真王代の1522年に完成した、首里城の石門から真玉橋を経て那覇港南岸に至る約9㎞の軍用道路でした。
沖縄戦では艦砲射撃の標的になり、1965年頃からは舗装コンクリートの下で自動車の重みに耐え、今やっと日の目を見た琉球王朝時代の歴史的遺物です。繁多川の文化財「真珠道」の石畳を思いを込めて踏みしめてみませんか。
令和元年(2019)年7月吉日 繁多川自治

 

平成30年の道路工事で見つかった石畳。

 

さらに進むと、分岐の間に水が湧いていた。

 

再び地元自治会による説明板が。

繁多川 字指定文化財
ハンタガー(繁多川)
ハンタガーとは元々、ハンタ(端)にある井泉(せいせん)を意味したとされ、この呼び名に「繁多川」の字が当てられ地域の名称になったともいわれる。ハンタガーは、シチナンダヌカ(識名平の井泉)とも呼ばれ、地域の人々の飲料水や生活用水に利用されてきた。昔は旧暦の6月26日になると、メーミチー沿いの3つの井泉とも「カーヒラシー」(井泉浚い)が行われた。中の水を汲みだすと、エビや魚が取れ、子どもたちの楽しみの一つだったという。
所在地 那覇市繁多川2丁目36-1番地
面積82m 水深90㎝
平成20年3月31日 繁多川自治会 

 

庇の下から水が今も湧く。

 

そこから細い流れが続く。

 

泉に沿う道路は、真珠道の一部「前道」だった。

繁多川 字指定文化財
メーミチー(前道)
メーミチーは、尚真王(1477~1526年在位)代に築かれた真珠道(石畳敷)の一部であった。北はシチナンダビラ(識名坂)を経て首里へと続いている。主要な井泉がこの道沿いに多いこともあって、昔から繁多川の地域住民の生活に密着した道であるとともに、他地域の人々の往来も多い道であった。
全長約250m 道幅平均約3.3m
平成20年3月31日 繁多川自治

 

が、「前道」は車が写っている向こう側の道で、自分が歩いた手前側は「後道(クシミチー)だった。

前道を経由して行けば、琉球八社識名宮に寄れたと後で知った。