前回のつづき。
実は「東京 記憶の散歩地図」を見てここに来たのは、天祖神社東の水稲荷に「富塚古墳」が記されていたからだった。
早稲田通り側から下りてきて住宅地を歩いていると赤い山門があった。
前回の細道の東側にある亮朝院(如意山栄亮寺)、別名は高田の七面堂。
鐘楼堂も道に面していた。
新宿区立戸塚第一小学校の周りを通って水稲荷の西参道へ。
参道へ入ると空気が変わった。
突き当たると本殿の脇に出た。
水稲荷神社の拝殿。
この本殿の裏側に塚があった。
札には「戸塚町名の起源になった富塚古墳」の文字。
墳丘の社。
その先は敷地が削られて柵がある。
隣は大きなマンション。
墳丘から社殿を振り返って。
墳丘を別の位置から見ると開口部があった。
巨石が組まれている。
奥へは続いていないようだった。
墳丘の北側に石段がついていた。
下っていくとテニスコート。
先へ進むと新目白通り側の神社入口に出た。
あとで調べていたら昇寛さんのサイト新宿区富塚古墳 » 埼群古墳館で、元は早稲田大学構内にあった墳丘が移築されてものだと知った。
神社のご案内 | 早稲田水稲荷神社にも『江戸名所図会』に描かれた時代には水稲荷神社そのものが早稲田大学9号館裏のあたりにあって「高田稲荷」とよばれていたものが、昭和38年(1963)に西早稲田3丁目の現在地に移転した記載されていた。
よって、改めて別の機会に早稲田大学9号館付近へ行ったがこれは次のエントリで。
水稲荷神社に隣り合って甘泉園公園がある。
さきほどのテニスコートもその一部だった。斜面を利用した回遊式の庭園がある。
3月~10月は午後7時まで、11月~2月は午後5時までの開園。
甘泉園という名は、園内に湧き水があり、清冽で常時涸れず、また、茶に適したところから起こったものであり、その由来を書き記した石碑が、園の南東にあたる水稲荷神社の社務所脇に現存している。
この地は、江戸中期の安永3年(1774)徳川御三卿の一つ、清水家の下屋敷がおかれたところである。明治30年ごろ、相馬家の所有となったが、昭和13年早稲田大学に委譲された。
戦後、都はこの地を買収し、改修の手を加えて、昭和44年、区へ移管した。
庭園は、神田川右岸を東西に走る台地の北面の傾斜地とその低地にあって、段丘の高低差を利用し、泉の水を引いた池を廻遊する林泉になっている。
池傍より見上げる雄大な常緑樹林に囲まれ、春のツツジ秋の紅葉が水面に写り、見事な景観を創り出している。「日本の歴史公園100選」にも選定された。(後略)
このときは10月だったので、17時を回っていたが入園できた。
紅葉には少し早かった。
池の脇には木道もある。
樹木で覆われた斜面はもう薄暗かった。
斜面の途中から見た池方向。
そのまま上がると上にも門。
さらに先には水稲荷神社の門柱で、背面は普通のマンションだった。
帰途は面影橋から都電の車窓を楽しんだ。