墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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江古田の富士塚 練馬区小竹町・浅間神社

前回のつづき。

ひばりが丘での墓参の帰り道、江古田駅で途中下車して駅前の富士塚を見学した。

ちなみに住所で江古田を引くと、中野区江古田(えごた)が出るが、西武池袋線江古田(えこだ)駅は練馬区旭丘にある。

江古田 - Wikipediaによれば、練馬区の江古田は江戸時代に多摩郡江古田村の新田として開発されたがその場所は豊島郡に所属しており、明治維新以降のそれぞれの郡内で合併が進んだことによるそうだ。

 

駅の北口の真向かいに、浅間神社の玉垣が見える。

 

駅前にしては広い境内。

 

 けやきの高木が並ぶ。「ねりまの名木」に指定されていた。

 

社殿の後ろに富士塚がある。 

 

拝殿の右手に解説板があった。

 

その内容。

国指定重要有形民俗文化財
練馬区登録有形民俗文化財
江古田の富士塚
江古田の富士塚は、富士講の一派小竹丸祓講(こたけまるはらいこう)によって今から200年程前の江戸時代後期に築造されたと考えられています。高さ約8m、直径約30mであり、富士山を模して溶岩を配置しています。関東大震災の時に損壊しましたが、その後、復旧されました。
頂上の唐破風屋根のついた石祠は、天保10年(1839)に造立されたもので、他に経ヶ嶽・太郎坊・小御嶽神社の石碑や大天狗・小天狗・神猿などの石造もあり、元治2年(1865)の講碑、大正12年(1923)震災時の御神体修築の碑などが建っています。社殿の側には文化4年(1807)の石燈籠や文化9年(1812)の水盤なども残っています。
都区内の富士塚の中では、大規模な部類に属し、庶民信仰の様相を示すものとして、昭和54年5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定されました。
平成27年10月 練馬区教育委員会

 

「登山道」は閉じられていた。立て札には、正月三が日と7月1日の山開き、そして9月の第2土曜・日曜の、年三回(9時~15時)に登山できると記されていた。

 

内側にも鳥居が見えた。

 

草木の間に溶岩が置かれた塚が見えた。

 

拝殿の左側から見ると、頂上の祠も見えた。

 

文化庁のサイト・文化遺産オンラインにも解説がある。前半は富士塚全般についてのわかりやすい説明で、「高田水稲荷」がその嚆矢であったことを知った。

富士山はわが国の霊山のうち、古来、信仰の対象とされた最も著名な山の一つで、修験道の行者の登拝の歴史も古代にさかのぼる。富士塚は、この富士山を模して築造された塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心安く富士に登山できるようにと、安永9年(1780)高田水稲荷の境内にこれを築いたのが始まりである。庶民の富士山信仰は、江戸中期には盛んになり、この頃から、江戸を中心に富士講が所々に結成され、やがて多くの富士塚が築造されて、現都区内だけでも五十数か所の富士塚を数えるに至った。(後略)

 

高田(早稲田)の水稲荷は昨秋訪ねたが、現在の早稲田大学構内にあった古墳を移したものだった。

水稲荷神社 富塚古墳 甘泉園 東京都新宿区西早稲田3丁目 - 墳丘からの眺め

 

 境内外側から見た富士塚。

 

道沿いに説明板があった。

 

 平成14年築の説明板があったが、内容は境内にあったものとほぼ同じ。

 

裏手の駐車場から。ここから地形的に下っているので、ここもかつては古墳だったのではと思ってしまうが、東京遺跡地図では江戸期の塚としか記されていなかった。 

 

後で調べていたときに、練馬区には他に3ヶ所の著名な(?)富士塚があるそうだ。

ねりまで富士登山! 富士塚特集-ねりま大好き! 練馬区観光協会

北町の浅間神社にある「下練馬の富士塚」、大泉町の八坂神社にある「中里の富士塚」、北町にある大松氷川神社にある「大松の富士塚」が紹介されていた。

 

江古田の駅の通路が、昭和40~50年代の江古田の写真展が開催されていた。

江古田を盛り上げる地域活性化プロジェクト - とにかく江古田!プロジェクトの一環。

 

50年以上前の浅間神社西側の道。

 

それほど変わらない景色ではないか(左の道)

神社は景観の守り手でもある。