墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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所沢航空記念公園 埼玉県所沢市並木

9月4日の日曜日、所沢航空公園の航空発祥記念館で開催していた「中島飛行機の傑作戦闘機たち」展を見に行った(展示は9/4で終了)

 

西武線の所沢駅から川越方面に1駅で「航空公園駅」

駅舎の大時計の文字盤はプロペラ仕様。 

 

駅舎自体も正面がプロペラ複葉機の意匠となっている。

 

中央やや下が所沢航空記念公園。地図左上が「航空公園駅」になる。

公園の面積は50haと広く、TDL(51ha)とほぼ同じ。

市役所や市民文化センターが隣接し、園内には図書館、航空発祥記念館やさまざまなスポーツ施設、子ども広場、日本庭園もある。

 

グーグルマップで見ると公園の北には防衛医科大が、その東隣には米軍施設がある。公園がある場所には日本で初めて飛行場が設けられたが、戦後一帯を米軍が接収。昭和57年までに7割は返還されたが、まだ通信基地が残っている。

 

駅前広場の一画に実物の旅客機が置かれていた。

 

国産初の旅客機 YS-11。

胴体の正面は新幹線0系にも似ている? 

 

最後はエアーニッポンで活躍した機体。 

 

ターボプロップエンジンはロールスロイス社製。

 

機種名であるYS-11の「YS」は、輸送機設計研究協会の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったものだそう。YS-11 - Wikipedia

 

説明板もあったが、30年近くを経て読みにくくなっていた。

NAMC YS-11A-500R
製造会社 日本航空機製造株式会社 表は以下略。
YS-11は日本の航空工業界が総力をあげて開発した唯一の本格的な近距離用ターボプロップ中型旅客機です。
1962年(昭和37年)8月に初飛行し、182機が製造され、国内需要だけでなく世界各国へ輸出されました。
展示のJA8732機は1969年(昭和44年)に製造された第101号機で全日本空輸(株)及びエアーニッポン(株)のご好意により寄贈を受けたものです。
1997年(平成9年)4月13日の大島→東京便を最後に、総飛行時間52,991時間、総飛行回数58,253回で現役を引退しました。

 

機首は駅前広場を向いている(左奥が航空公園駅)

 

YS-11の横の歩道を5分ほど歩くと、かつて滑走路があった広場に出た。

 

広場の周囲には桜が植わっていた。春は賑いそう。

 

その先に、所沢航空発祥記念館があった(内部は次回エントリで)

 

記念館の前にも実機が置かれていた。 

 

空自で活躍したC-46中型輸送機「天馬」

 

解説板もあった。

C-46中型輸送機(天馬)
C-46方輸送機は、アメリカのカーチス・ライト社が1940年3月から総数3,180機を製造しました。
当初は軍用輸送機として使用されましたが、戦後は数多くが民間旅客機として使用されました。
日本では、昭和30年1月航空自衛隊の輸送機としてC-46D型機を初装備し、昭和34年12月にはC-46A型機を輸入して総数47機を保有していました。この輸送機は「空のデゴイチ」とも呼ばれ、航空自衛隊では災害時の緊急物資輸送などに広く活躍しました。
ここ所沢航空記念公園に展示しているC-46A型輸送機は、航空自衛隊入間基地で使用されていたものを、昭和55年3月に分解、運搬し、当公園のシンボルとして設置したものです。中略。
最大速度は433km/h、上昇限度は8,400m、航続距離は2,200kmで、乗員5名、輸送人員は50名です。
平成22年3月 所沢市市民経済部商工労政課

 

その前には「航空発祥の地」の碑があった。

 

その説明板。

所沢市指定文化財(史跡) 航空発祥の地
所沢市が日本の航空発祥の地といわれているのは、明治44年(1911)4月、所沢に日本初の飛行場が開設されたことによります。
明治42年(1909)7月、勅令により臨時軍用気球研究会が発足し、航空機に関する研究が開始されました。気球研究会は、設置直後から試験候補地を検討。栃木県大田原市や千葉県下志津なども候補地にあがりましたが、旧所沢町と松井村にまたがる地域に決定されました。気象条件や地形の起伏などが選定の理由であったとされています。
開設当初、所沢飛行場の敷地面積は約76.3ha。飛行機格納庫、気象観測所、軽油庫、東西方向に幅約50m、長さ約400mの滑走路を持つ飛行場でした。この県営所沢航空記念公園は、所沢飛行場の跡地に造られた都市公園です。
所沢飛行場での初飛行は、明治44年(1911)4月5日の早朝に開始されました。まず、徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機で飛揚し、約1分で着陸。続いて、日野熊蔵大尉がライト機で3分30秒の飛行時間を記録しました。
所沢の住民はもとより、多くの見学者が、飛行を一目見ようと、近在各地から集まり、訓練日には桟敷が設けられ、飛翔のたびに歓声が上がったといわれています。
平成23年3月 所沢市教育委員会

 

碑の背面にも由緒書きがあった。

 

この日は航空公園まつりの日で「放送塔」周辺は大賑わいだった。

 

航空整備兵の像。長沼孝三により昭和18年に作られ平成9年に修復を受けている。

静かな一画だった。

 

このテニスコートも「史跡」

米軍基地時代の面影を残す場所として、コートの形で保存されている。

 

そのコートのそばにあった立派な慰霊塔。

 

「我が国最初の航空犠牲者 木村、徳田両中尉像」

 

大正2年に青山練兵場から帰航途中、着陸直前に突風で翼が壊れて墜落してしまった。

 

慰霊塔の前の広場から。バスケットのコートなどがあった。

 

芝生エリアがそこここに広がっていた。

 

南側の公園入口。中央奥が「放送塔」で、展望台ではなかった。