前回のつづき。
1/5スケールの飛行機模型がかかる吹き抜けの円形の部屋がメインの展示スペースとなっていた。壁に沿ってパネルを見ながらスロープを降りていく。
スロープの途中に趣きがちょっと違う部屋がある。
ここに前回エントリの星子氏の肖像画や切手、さらにはラリーのトロフィー、社員が使用したカメラなどの実資料が展示されていた。
スロープを降りると実車が並ぶスペース。触ってはいけないが、ロープなどで囲われていないので、間近で観ることができる。
日野ルノー4CV 1953年(昭和28)製造 直列4気筒、748cc、最高速度87km/h
日野は乗用車を製造する為、1953年フランスルノー公団と技術提携し、ルノー4CVの生産を部品輸入による組立生産(CKD)で開始し、1957年には完全国産化を達成した。リヤエンジン・リヤドライブ(RR)方式は広い室内スペースと低燃費で、多くのタクシーに使われた。
後姿はVWビートルに似ている。
と思ったら、WIkipediaに下記の記述が。
フランスのルノーが1946年から1961年まで生産した小型乗用車である。
フォルクスワーゲン・タイプ1の影響のもと、そのリアエンジンレイアウトを踏襲して経済的な国民車(大衆車)として作られ、フランスで初めてミリオンセラーとなった乗用車である。
コンテッサ900 1961年(昭和36)製造 直列4気筒 893cc
以下はパネルから。
新開発のエンジンは国内初オートチョークを採用。リヤサスペンションは耐久性と操縦安定性に優れたトレーリングアーム方式で、スタイルも日野独自のものである。軽量構造による動力性能は抜群で、1963年1回日本グランプリのツーリングクラスで外車勢を押さえ優勝した。
エンジンは後ろにあるので、リヤドア脇に吸気口がある。
後姿が美しい。「コンテッサ」はイタリア語で伯爵夫人。
こちらのサイトに当時のカタログ写真が掲載されている。
「昭和41年(1966)にトヨタ自動車との業務提携に伴い乗用車生産から撤退」したことも。
コンテッサの生産(1961~67)は、トヨタ自動車によるパブリカ(1961~78)の生産と同じ年に始まっている。
しばらくして陽の光が差し込んで、鮮やかな色になった。
その隣には、今見ても姿の美しさが際立つ、緑のクーペがあった。
コンテッサ900スプリント 1962年(昭和37)製造
小柄なボディでスポーティな性格と持つコンテッサ900に注目したイタリアのジョバンニ・ミケロッティが、同社をベースとしたスポーツ車の製作を申し入れ、日野がエンジン、足廻り部品などを提供してこの試作車が製作された。世界各地の国際モーターショー並びに第10回全日本自動車ショーではデザインの美しさから注目を集めた。
ミケロッティ(1921~1980)は、トライアンフやBMWなど各社の製品を手掛けたイタリアのカーデザイナー。ミケロッティの方から申し入れを引き寄せたのは、コンテッサ900の魅力。
Wikipediaによれば、もともと国内での販売予定はなかったようだが、欧州の自動車メーカー各社からEECに圧力がかかり、生産・市販はされず「幻の名車」となったとのこと。
エンジンが納まっているようには見えない後ろ姿。微妙なカーブが見ていて気持ちよい。
こちらも陽の光でさらに鮮やかな緑になった。
こちらは見覚えのある顔。
コンテッサ1300クーペ 1965年(昭和40)製造
乗用車コンテッサ1300シリーズはイタリアのカーデザイナー・ミケロッティ氏にデザインを依頼し、その流麗なスタイルで世界的に名声を博した。
コンテッサ1300クーペは1967年まで生産され、第5回と第6回国際自動車エレガンスコンクールにおいて、受賞の栄誉に輝いた。
昔々このブリキのおもちゃを持っていたようないないような。
こちらのオークションサイトで見たら10万円以上になっていた。
赤箱 旧バンダイ 日野 コンテッサ1300 ブリキ 自動車 /【Buyee】 "Buyee" 日本の通販商品・オークションの代理入札・代理購入
リヤエンジンの流れを受け継ぐ。4ドアセダンも発売された。
ハンドルには「HINO MOTOR LTD」のエンブレム。
独特の二連の目。フロント中央にラジエータ・グリルがないので余計目立つ。
エンジンの展示。左のコンテッサ1500のエンジンは1300の後継に乗せるはずだったが、トヨタとの提携で開発中止となった幻のエンジン。今のスバルとトヨタとの提携の形のように特徴のはっきりしたタイプ(RR)の乗用車として、日野でも乗用車開発を続けていたらどうなっていたか・・・・
下にオイルパンが敷いてあるということは錆びないように油をさしているのだろう。
ハスラー 1961年(昭和36年)製造(日野はOEM販売)
今では車のハスラーといえばスズキのオフロード軽4輪だが、こちらに先輩がいた。
国内で三輪車が全盛だった1958年から、日野自動車は三井精機工業株式会社製造の小型三輪トラックや軽三輪トラックを販売していた。この展示車両は軽三輪トラック「ハンビー」に日野のマークをつけ「ハスラー」と改称し販売したものであり、東南アジアで主にタクシー用として活躍した。
工作機械・コンプレッサを製造する三井精機はかつてオート三輪車を製造し、日野自動車の小型トラックを受託生産していた。沿革 | 三井精機工業株式会社
日野コンマースPB10型 1960年(昭和35)製造
フロントエンジン、フロントドライブ(FF)、モノコックボデーの全輪独立懸架で低床の荷室は使い勝手がよく、バンとミニバス仕様を設定した。しかし、FFの技術が未完成な時代であり、2000台余りで生産を終了した。
地味だが古さを感じない機能美のデザイン。
ボンネットバスBH15
ボンネットバスBH15 全長9,950mm、全幅2,460mm、全高3,030mm、乗車定員55人
現在のバスの基礎ともなったボンネットバスBH型は高度成長時代の1950年に登場し、人々の足となり、長期にわたり活躍した。この車両は1966年式で、日野ボンネットバスの最終生産車。
行き先版の上の3連ランプは昔のバスやトラックに付いていた速度表示灯。1999年(平成11年)の法改正により廃止されている。
堂々としたグリル。
愛らしい後姿。
前に重たいエンジンとバランスをとれるので、後輪から後ろの客席が長い。
手前は別のタイプのバスのエンジン。
左側面から。自然博物館なら、くじらや恐竜の模型のようなメインの位置取り。
中に入って、運転席後ろから後方。椅子のシートは新品同様。
最後部席から前方。現在主流な低床バスとは違い、車内がフラットで電車のよう。
運転席。右の機械(音声案内か行き先表示?)は動くのだろうか。
懐かしいブザー。
懐かしい天井開閉口。
こちらは本格的なトラックの運転シュミレーター。ちょっとボクには・・・
見上げると「航研機」
展示物が大切に丁寧に保管されていて、気持ちの良い施設だった。
さらに、エンジンのみを展示した部屋があった。
つづく。