墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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富士塚古墳 東京都北区十条

前回のつづき。

お墓参りの帰りに十条の古墳に寄った。

はじめて降りた埼京線十条駅。だと思ったら正式にはまだ赤羽線のようだ(by Wikipedia)下記のあ行。さ行の埼京線の名前でも出ているが・・・

JR東日本:駅情報検索

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さらに言えば、湘南新宿ラインは ここを通らずに田端の方に遠回りしている。何故?と思ったら、ヤフー知恵袋にちゃんとQもAもあって「歴史的理由(東北貨物線の活用策)」と「設備的理由(15両は無理)」が書かれていた。


 

南口で降りて北へ向かって歩くと、駅との間が路地のようになっていた。

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踏切の向こうに魅力的なアーケードが見えたが、またの機会とした。

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上の踏切から東に商店街を歩いた。「演芸場通り商店街」とあった。

結構な人通り。車の通りはなかった。閉まったシャッターが多いのは休日のせいなのかはわからなかった。左右に小さな路地の枝が伸びる。

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途中に、通りの名前になっている篠原演芸場があった。哀川翔のショーをやっていた。(→哀川昇さんでした!大変失礼いたしました)

このあたりから道がゆるやかに上る。

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上った先で岩槻街道(日光御成道)~東京都道460号中十条赤羽線にぶつかる。

街道のことは下記のサイトに詳しい。見ていたら岩槻に行きたくなった。また南に向かえば飛鳥山や旧古河庭園、六義園の真横を抜けて本郷の東大前で中山道と合流する。

日光御成道を歩く - 旧街道ウォーキング - 人力

 

街道沿いに北に100mほどのところに富士塚古墳(富士神社)があった。

隣の富士学院(~社交ダンス練習場でした)は建て替え基礎工事中。

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一瞬この場所も世界遺産登録されているのかと思った。実際、世界「文化」遺産なので、現在でも「富士講」が活きているこの場所が登録されてもおかしくないと思った(そうであれば、世界遺産登録古墳第一号であった)

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詳しい解説。「十条の富士講は、今も講員が集まってお伝えを唱えるオガミを行い、毎年6月30日、7月1日には富士山の山開きに合わせて祭礼を執り行うなど、江戸時代以来の信仰を受け継いでいます」とある。

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自分が古墳に興味を持つきっかけとなった「関東古墳ベストガイドブック」に掲載されていている古墳でもある。

下記は同ガイドブックからの抜粋。

「富士塚古墳 円墳 直径18m、高さ5m

・・・北区内のこの周辺には十条古墳群が分布している。十条富士塚ももともと古墳だった場所の上に造られたと推定されている。十条台古墳群は、古墳時代の後期にあたる6~7世紀に広がったとされるが、この塚の築造は調査がされていないため特定できていない・・・」

 

岩槻街道に面して鳥居が立つ。

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直登の階段を登る。階段左手に説明板があったが撮り忘れてしまった。

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塚の上から街道を見たところ。元来の古墳の上に溶岩が積み上げられている。

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頂部は平坦にならされていて、祠と大木がある。

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スダジイの巨木。樹木名の札があってうれしい。

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富士山の御神体の分霊の石祠。

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登山道はもう一本ついていた。祭礼の日には参詣者でごったがえして一方通行の降り口になるのだろう。

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途中5合目付近からの眺め。左のビルが建つと谷間になってしまう。

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工事現場越しの富士塚。

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向かいに小学校があるからか正面の岩槻街道には片道1車線なのに歩道橋があった。岩槻に向かう方向。

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橋の上からの富士塚古墳。

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渡った先の北区荒川小学校。

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校門前が小公園になっていて富士講や街道の説明板があった。

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日光御成道(にっこうおなりみち)の解説。興味ある内容だったので写真下に転載。

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「岩槻街道は、江戸時代には日光御成道と呼ばれていました。歴代の将軍が、家康をまつる日光東照宮に参詣し、年忌法要を営むために通る専用の道でしたので、このように呼ばれました。また、江戸と城下町岩槻(埼玉県)とを結ぶ街道であったので、岩槻街道とも呼ばれていました。本郷追分(文京区)で中山道と分かれ、北区を縦断し、岩淵から川口へは荒川を船で渡ります。将軍の通行の時には、荒川に仮橋が架けられ、この渡り初めを岩淵の子どもたちが行ったといいます。街道は、川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻を経て、幸手で日光道中と合流しました。江戸から幸手まで、12里30町(約51km)でした。将軍の通行は大行列で、将軍に直接供奉(ぐぶ)する者だけでも2千人を越え、沿道の村々では、これらの荷物を運ぶため大量の人馬を負担させられました。

一方、日光御成道は、川口の善光寺で阿弥陀如来の開帳が催されると、そこへ参詣する江戸や近傍の人々で賑わうようになります。文政2年(1819年)閏4月、善光寺を訪れた帰路、ここを通った村尾正靖(むらおまさやす)は、このあたりは豊島・神谷・川口の付近を眼下に望むことができ、遥かに江戸川や国府台が遠望できたといっています。同11年4月13日(旧暦)善光寺の開帳に行くために通った十方庵敬順(じゅっぽうあんけいじゅん)も、この付近は北から南に見晴らしがよい場所とし、ここから雲雀の翔ぶ姿をみて初夏の颯爽とした気分を紀行文にあらわしています」

 

荒川小学校の隣、真光寺沿いに細道を行くと、左に下りる坂があり、そのまま線路をまたぐと東十条駅に出る。小学校の校庭が標高23.5mが駅東口で5m。高低差ファンにはおなじみの十条台崖線。

跨線橋は、かなりの年代モノだった。

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迫力あるリベット。

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帰って検索したら、下記のサイトに詳しかった。

http://www.asahi-net.or.jp/~cn3h-kkc/tokyo/jujyobrg.htm

以前は1895年(明治28年)に東北本線荒川橋梁として架けられていた橋の一部を1931年(昭和6年)に移設したもの。交番のある北西側の橋詰の鉄枠には「COCHRANE&C・1895・ENGLAND」と刻まれた銘板が取り付けられているそうだ。

 

重要文化財級ではないか? 銘板を見逃したのでまた来たい。

 

交番の向かいには庚申塔とお地蔵さんがあった。

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跨線橋から南側の眺め。台地の縁の線路だが左の新幹線高架の方が高くなっている。

中央左のドームは王子の「北トピア」のプラネタリウムだったが3月で投影施設としての役割は終了していた。

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京浜東北線・東十条の駅は、上り・下りホームの真ん中に線路が割って入る面白い形をしていた。

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