墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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赤塚氷川神社富士塚 東京都板橋区赤塚

昨年11月下旬に平林寺の紅葉を見に行った帰り、北朝霞から東上線で成増に出て板橋区赤塚の区立ミュージアムや城跡、富士塚などを訪ねた。

成増駅北口から高島平操車場行きのバスに乗り、赤塚4丁目で下車。枝道に入って上り道を進む。

 

折り返しの坂道。

 

台地の上にも戸建てが並ぶ。

 

そこから西方向。バス通りの谷を挟んだ対岸の緑は成増4丁目緑地。

 

先が空に抜けている路地へ惹かれて。

 

その先は車は行き止まり。眺めのいい台地の端だった。

北方向の眺め。

 

北西方向。中央の吊橋は東京外環道の幸魂(さきたま)大橋。

 

台地下と連絡する階段道もあった。

 

そこから200mほど南に、赤塚氷川神社が鎮座する。まずは拝殿で参拝。

 

後ろの本殿。

 

板橋区による神社の解説板。

氷川神社
御祭神は素戔嗚命、藤原広継命。
長禄元年(1457)に赤塚城主千葉介自胤が武蔵一宮氷川神社から御分霊を勧請したといわれています。御霊神社の由緒については不詳です。
文政11年(1828)成立の「新編武蔵風土記稿」には「上赤塚村 氷川御霊合社 村の鎮守なり 清涼寺持」とあって、江戸時代には清涼時が別当として社務にあたり、旧上赤塚村の鎮守として村民から崇敬を集めていたことが記されています。
安政4年(1857)正月に、本殿が再建され、さらに明治14年(1881)8月には拝殿が新築されるなど、幕末から明治時代にかけて整備が行われています。
なお、拝殿が新築された際には、それを記念して祭礼(奉祝祭)が斎行されましたが、その時の様子を描いた絵馬が明治16年に村民から奉納されました。この祭礼図絵馬を始め、当社所蔵の絵馬・扁額は平成22年度に板橋区の登録有形文化財となりました。
また、本社の裏手には、元治元年(1864)に氏子によって奉納された「御嶽山座王権現」碑が建てられた木曽御嶽塚があり、平成27年度に区登録記念物となっています。
平成29年3月 板橋区教育委員会

 

鳥居の前から。

 

そこから振り返って南側。参道の木々は太かった。

 

赤い鳥居の左隣に富士塚の富士塚があった。

 

塚の前には鳥居もある。

 

イチョウの脇には詳細な説明板。

赤塚氷川神社富士塚
富士塚は、一般的には、富士山へ登拝することを目的に組織された「富士講」の人びとによって、富士山を模して造られた、ミニチュアの人造富士山のことで、富士講が爆発的に広がった18世紀以降に、各地で盛んに造られました。
富士塚の特色は、山麓から山頂にかけて登山道を模した道を設け、それに沿って石碑を配して、富士山各所の礼拝所を表現していることや、「黒ボク」と呼ばれる富士山の溶岩石を取り寄せ、使用している点にあります。
なお、他地域の富士塚では毎年7月1日前後の富士山の山開きに合わせて祭礼が行われている所があります。また、富士塚への登山行為自体が富士山登拝と同様の御利益があるといわれています。
当富士塚を造成したのは、新座郡中沢村(現在の新座市)出身の浅海吉右衛門(行名 蓉行芙厚)が開いた「丸吉講」です。当地(旧上赤塚村)へとその丸吉講が伝播した時期については、丸吉上成(上赤塚・成増)講に伝わる御三幅「御身抜」に、「天保六年、蓉行芙厚□、七拾七年、書之」という墨書銘が確認されていることから、天保6年(1835)頃と考えられます。
なお、この富士塚の造成時期については、志木市敷島神社の境内にある「田子山富士」に奉納された、明治5年の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「上赤塚千元 富士山」と表記されていることから、それ以前の造成と考えられます。
また、塚上に慶応4年(1868)に白子丸瀧講(現在の和光市)の先達を務めた富澤藤七が造流した「登山三十三度大願成就」の碑があり、造成時期はさらにさかのぼる可能性も考えられます。平成23年度に区の登録記念物(史跡)となりました。
平成25年3月 板橋区教育委員会

 

見上げる高さのしっかりした塚だった。 路が整っていたので登拝させていただいた。

 

山頂付近。

 

山頂の祠。

 

山頂から登り口を振り返って。

 

山頂から木々を通した眺め。

 

裏から見た富士塚。麓はコンクリでしっかり補強されていた。

 

板橋区で作っている「文化財解説カード」 にはこの富士塚のカードもあり、区のサイトで画像を見ることができる。

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/044/attached/attach_44370_8.jpg

 

こちらの境内には本殿左奥に木曽御嶽塚もあったことをあとで知った。

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/075/075764.html

 

ご~ご~ひでりんさんのサイト「古墳なう」には、この塚がもとは古墳であった可能性が、板橋区史(昭和29年)にあるコメントとともに紹介されていて非常に興味深い。

http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-296.html

 

神社の東側の魅力的な細道。

 

一旦台地を降りて、東隣の丘を目指した。