前回のつづき。
見たかった場所は回れたので自転車を返しに西口へ向かったが、時間があったので市街や港を徘徊した。
前に木更津アウトレットに立ち寄ったときにもらった「ぶらり木更津まち歩き」というパンフレットが役に立った(観光案内所は西口駅前にもある)
・八劔八幡神社(やつるぎはちまんじんじゃ)
駅の近く。分かりにくい場所にあるが境内の木が目印になる。
神社の鳥居から、鳥居崎通りが一直線に海まで伸びている。
境内の源頼朝お手植えのソテツ。下記は木更津市のHPより。
「昔、源頼朝が君津市草牛(そうぎゅう)の森家で兵馬の疲れを癒し、そこを離れる際、森家へのお礼として、頼朝が蘇鉄を植えたという言い伝えがあります。
大正15年、当時の(株)木更津銀行頭取露崎銀平氏が、森家からこの蘇鉄を譲り受け、八剱八幡神社へ奉納し、現在に至っております。」
神輿殿には関東三大神輿の一つが納まっている。シャッターの格子が光ってよく見えなかった。
境内には嶺田楓江(みねだふうこう)の碑があった。下記も市のHPより。
「嶺田楓江は、江戸時代後期の1818年生まれ。儒学や蘭学を学び、各地を遊学しました。1843年には、現在の北海道を踏査して、江戸幕府に屯田制や、北方警備の必要性を訴え、「海外新話」を書きました。しかし、治安を乱したとして、江戸から追放され、当時の請西村(現在の木更津市請西)に移り住みました。
後に当地で地元子弟の教育に専念したことから、1881年(明治14年)に長寿とその業績をたたえた寿碑が建立されました。
この碑は、文を重城保が撰し、題字を英国領事館コラウブスが、書を清国の劉世安が記したという、全国でも珍しい碑です。」
八劔八幡神社の横の商店街(跡?) いい感じのカーブだがやっている店が無い。
神社の近所の気になる建物。細長い敷地一杯に、古びた蔵?が並んでいた。
駐車場をはさんだ位置の「きそば ふじや」
こちらは営業中。大もり450円だった。てんぷらもおいしそうだった。まち歩きのパンフにも載っていた。
以下も市街に残る古い建築物。説明文は前記のパンフレットから。
・旧山崎病院
大正9年(1920年)築造。「戦災だけでなく関東大震災もくぐり抜けた貴重な建物」
・ 旧金田屋洋品店
店は明治創業だが建物は昭和7年(1932年)築造。「正面開口部欄間のひし形の色ガラス、2階のアーチの上の櫛型の飾り等、当時の演出が楽しめる」
・はまだや
パンフには記載はなかったが2階のデザインが面白い。和紙とお茶の店だったようだ。上記の旧金田屋の向かいにある。
・安室薬店
昭和4年(1929年)築造。木造2階建て。「2階部分の窓の両側には柱形を作り上部をアーチ状にした装飾がある。昭和初期に各地で造られた看板建築の好例」
~2階だけ見ると、イタリアの小都市に見える・・・?
パンフレットには他にも山田眼科医院とかヤマニ綱島商店(国有形文化財)など数軒紹介されていたが見逃してしまいました。。
いずれも貴重な建築遺構ですが、訪ねたところはシャッターやカーテンが閉まっていて、寂しい気持ちになりました。 人が集まれる工夫で賑わいが生まれれば、と思いますが・・・
・中の島大橋
鳥居崎海浜公園から中の島公園にわたる「日本一高い歩道橋」
中央部が高くなっている橋は、歩いていて視線に変化が出るので気持ちが良い。
空に向かう上り。
海に向かう下り。
巨大なリモコングライダー(?)2機が、頭上を気持ちよさそうに舞っていた。
海の向こうには、うっすらと横浜ランドマークタワーが。
木更津港側は、空と水面との色合いがきれいだった。
港の北側(木更津出島)に屋台が出てお祭りをやっているようで、ハワイアン・ミュージックが聞こえてくる。早速行ってみることにした。
道すがら、港で出会った三兄弟。
海辺にフラダンスはよく合う。踊り手も観客もみんな笑顔。
広い芝生がいい気持ち。ブルーベリージュース200円が美味しかった。
岸壁では親子ハゼ釣り教室。奥がさきほどの中の島橋。
以上で木更津編終了。自転車のおかげで思ったより沢山回れました。
帰りの内房線・木更津14:59発久里浜行きの快速15両編成はガラガラだったので、蘇我までボックスシートに一人掛け。なので線路沿いの高柳銚子塚古墳や、五井駅の小湊鉄道を撮ることができました。