5/10の午後、子供と一緒に外出。いちはらアートミックスが気に入ったようで、前回行けなかったところを見たいと言うので早速出発。東関道、千葉外房有料道路、圏央道を乗り継いで、市原鶴舞ICで降り、月出工舎を目指す。
が、その前に、前回来た折に、道路沿いの看板「重文 鳳来寺観音堂」で気になっていたお堂に立ち寄った。グーグルマップのかなり小さな縮尺にも表示される。
話がそれるが、このあたりはゴルフコースの密集地帯。コースは台地の上なので車で走っている限りでは田んぼやお堂の昔話のような田園風景だが、航空写真を見るとすごいことになっている。市原市はゴルフ場(利用税交付金ランキング)日本一だった。
2010年度。下記サイトによる
http://city.ma-bank.net/ranking2007.html
鳳来寺観音堂は、鳳琳カントリークラブに向かう道の途中にある。
案内板もある。自分の姿が映りこんだことに気がつかなかった。スマホを見る距離がだんだん離れていく・・・
重要文化財 鳳来寺観音堂 室町時代 以下は案内板の転載。
鳳来寺観音堂はもと吉沢城守護のために建立されたといわれる善福寺にありましたが、寺が衰微するのに及び、明治16年、曹洞宗の麒麟山鳳来寺に合併されました。観音堂は善福寺旧地にそのまま残されましたが、昭和41年に解体修理が行われた際、現位置に移されました。
観音堂裏手の吉沢城は、北東約12キロメートルにある平蔵城の支城として築かれ、平蔵城主の一族である土橋忠勝の居城であったといわれています。天正18年(1590)、本城である平蔵城は、豊臣秀吉の差し向けた軍に攻撃されて落城し、この時、吉沢城も運命を共にしたと思われますが、観音堂だけは数奇な経緯をたどって今日に残されました。
堂の平面形は、桁行・梁間とも三間のいわゆる三間堂で、屋根は単層の茅葺寄棟造の建物です。内部の正面には一間幅の来迎壁があり、その前面に建築当初の須弥壇が置かれています。柱は棕柱で周囲には切目縁をめぐらし、軒は二重の扇垂木で、二手先詰組を用いています。内部の架構や軒回りの組物には禅宗様の特徴が見られ、西願寺阿弥陀堂と並び、室町時代後期を代表する建物です。
端正な佇まい。
茅葺部分と軒の木組みの部分とのバランスが絶妙ではないか。
整った軒先。
案内板にあった西願寺阿弥陀堂にも行ってみた。
こちらも重文なのに、グーグルマップには出ない。
鳳来寺観音堂と、台地(タクエーカントリークラブ)を隔てた東側、大多喜街道沿いにあった。
「千葉の観光まるごと紹介」に位置が載っています。
http://www.kanko.chuo.chiba.jp/kanko/1089/
街道から少し奥まった高い場所にある。
カーブのついた屋根の勾配。
こちらも案内板があった。
重要文化財 西願寺阿弥陀堂 附 厨子 1495年 以下は案内板の転載。
西願寺は、同寺の略縁起によると、「平蔵城主平将経は厚く三宝に帰依し、鬼門守護のため東国無双の七堂伽藍を建立させたが、明応4年に落成したので行基菩薩御作という阿弥陀如来を安置し、西願寺と号した。堂の上部は総て金箔塗り、下部は朱塗りにして金色燦然としてまばゆいため、平蔵の光堂と称するに至った」とあります。
堂は正面三間、側面三間で周囲に切目縁のつく茅葺の寄棟造りです。軒廻りは二軒の扇棰で、それを支えるための組物は三手先詰組という構造です。軒の出が深く、反の出の大きい屋根のため、見事な建築美を構成しています。
内部は来迎柱と内陣柱の四本の内側に内陣を作り、その上部は鏡天井です。組物や架構も、大虹梁、大瓶束、海老虹梁など、すべて本格的な禅宗様の技法に則って建築されています。
この堂は、昭和2年に解体修理を行いましたが、その際に内部の尾棰に墨書が発見されました。それによると、明応4年(1495年)鎌倉の名人大工二郎三郎らによって建立されたとのことです。
また、堂内に安置されている厨子も堂の様式と同じ三手先詰組、二軒の扇棰で創建当初のものであるので、昭和30年に堂と合わせて重要文化財に指定されました。
墨 書 銘
かまくらの十人(住人)二郎三郎殿
てんかのめいちん(名人)なり
さいがん寺のほうすわ(坊主)
りんきのめいちなり
さへもん三郎
九郎二郎 両人廿七
かまくらの住人にて仕候年廿八
九郎二郎左衛門三郎
明應四年七月五日 はひれ候
屋根組や厨子が格納されている様子。
軒が深い。
水田が池のようになっていて、京都の庭園のようでは。
垂木が二重になっている。それぞれの組物に象の鼻のような飛び出し部(木鼻)がある。
一瞬、グランドピアノの中身を思い浮かべた。
二重の垂木は、軒先角でもきれいに整っていた。
どちらの建物も小さなものだが、凛とした雰囲気があった。