前回の臼ガ森古墳から北東に約3㎞に、国史跡の亀ヶ森古墳・鎮守森古墳が隣り合って残っている。
さらに北東400mほどに阿賀川がある。川の上流は栃木県との県境の荒海山で、ここから西へは磐越西線と寄り添うように、山の中を流れて新潟県に入ると阿賀野川と名を変えて新潟市街で日本海に注ぐ。
つまり、亀ヶ森・鎮守森古墳は、会津盆地と日本海とを結ぶ交通・物流の要衝という立地。
墳丘にある解説板によれば、付近の当時の集落跡から北陸地域の特色を持つ土器が出土したそうです。
周囲の水田地帯から4mほど小高い集落の北西端に墳丘がありました。
史跡の指定範囲が示された説明板。
史跡 亀ケ森・鎮守森古墳
国史跡指定 昭和51年5月6日
亀ケ森古墳は、墳丘の全長が約127mで、東北第2の規模を誇る前方後円墳です。 後円部は三段築成で、葺石が見られます。出土した埴輪から、4世紀後半の築造と考えられています。
鎮守森古墳は、墳丘の全長が約55mの前方後方墳です。墳丘とほぼ相似形の周堀があるのが確認されました。出土した二重口縁壺から、4世紀後半の築造と考えられています。
町では、古墳の恒久的保存と郷土学習の場としての史跡公園整備をめざして、史跡の公有化事業を進めています。
会津坂下町教育委員会
会津大塚山古墳(全長114m)より亀ヶ森古墳(同127m)の方が大きかったとは。
ちなみに東北地方で最大は宮城県名取市にある雷神山古墳(全長168m)になります。
亀ヶ森古墳説明板のQRコードは、英語、中国語(簡体・繁体)、ハングル、タイ語(?)という多言語対応でした。
周溝跡と思われる平面をわたって、いざ墳丘へ。
東北地方第2の大きさ(全長127m)で、古墳時代前期後半に築かれた前方後円墳です。
先ほどの説明板にあったように、長軸は西北西ー東南棟にあって東南棟側が後円部。
後円部の先端寄りから西北西側を見ています。
さらに左に目を移すと鎮守森古墳(左の木立の中)
階段を上がろうとすると目が合いました。
猫さんがいたあたりで二股に分かれていました。
左が稲荷神社で右が観音堂、中央奥に墳丘(3段目?)が一部残っています。iphoneカメラの広角で。
初めに稲荷神社に向かいます。
墳丘の一部は桜がドーム状に残っていました。
石段はピンクの絨毯。
後円部に建つ稲荷神社。
その隣に、一部が残る墳頂部。
中世に館として利用されたため、築造当初の景観とはかなり異なっているそうです。
史跡 亀ケ森・鎮守森古墳
国指定 昭和51年5月6日
所在地 会津坂下町大字青津字男壇・舘の越・田中
亀ケ森古墳
東北第二の大型前方後円墳で、現況では全長127m、前方部長60m、後円部直径67m程の規模である。前方部は墓地となり、後円部には稲荷神社・観音堂が建てられ、中世は館として利用されたため、築造当初の景観とはかなり異なるが、周囲に堀跡の水田を残している。平成4年の試掘調査によって段築・葺石・埴輪などが認められ、4世紀末の年代が考えられる。
鎮守森古墳
亀ケ森古墳の南西50mの位置に亀ケ森古墳とほぼ同方向に並んで築造されている前方後方墳で、後方部には八幡神社が祭られている。全長56m、前方部長30m、後方部長26mを計り、周堀の有無は不明である。築造時期は未発掘のため詳らかでないが、亀ケ森古墳より若干下るものと考えられている。平成元年、古墳の西の男壇(おだん)遺跡・中西遺跡・宮東遺跡が発掘調査され、男壇・宮東遺跡からは前方後円形・前方後方形・方形・円形などの周溝墓を発見、中西遺跡からは当時の集落跡が出土した。これらの遺跡から出土した土器は非常に北陸色の強いものであって、亀ケ森・鎮守森両古墳の系譜を考える上で重要な遺跡である。
会津坂下町教育委員会
残っている墳頂部に上って、祠に参拝。
そこから右を向くと観音堂。
観音堂を正面から。
途中の周溝のところに説明板があります。
日本遺産 会津の三十三観音めぐり
会津三十三観音第32番札所
青津観音堂
観音堂は、元は隣の青木集落にあったが、慶長16年(1611)の会津大地震の影響による大水で壊され、その後、観音像は長らく青津集落の浄泉寺に安置されたとされる。正保3年(1646)に現在の観音堂が建てられ、この地に移ったと伝わる。
本尊は像高76㎝、総高97㎝の聖観音菩薩立像である。
観音堂の建つ小高い丘は「大亀甲舘」といわれていたが、昭和32年(1957)に前方後円墳であることが確認され、昭和51年(1976)に国の史跡に指定された。
御詠歌
春は花夏は青木に繁りつつ 秋は紅葉に染むる露しも
極上の会津プロジェクト協議会
墳頂から見た稲荷神社。結構大きな建物です。
稲荷神社の建物の先が、墓地に改変されている前方部。崖になっていて降りられません。
回り込んでその墓地へ。右が後円部です。
前方部側から見た後円部。
端まで行って振り返った前方部(墓地)と奥の後円部。
そこから見た西北西側の眺め。
墳丘全体を南側から。左が前方部、右が後円部。
前方部の右裾側から。
前方部の左裾側から。
そこから北東方向。鉄塔の後ろが阿賀川の堤です。