観音森古墳は前回の常世・竹花古墳1.5㎞南あたり、会津盆地に東の雄国山側からの丘が張り出したところに、田中・舟森山古墳、深沢古墳、観音森古墳などが雄国山麓古墳群を形成している。
そのなかで斜面の高い側に残っているのが観音森古墳。水田部との比高差30mほど。
集落の中を上がって行くと、大雲山観音寺に突きあたった。
会津三十三観音の第8番札所となる観音堂がある。
日本遺産 会津の三十三観音めぐり
会津三十三観音第8番札所
竹屋観音堂 曹洞宗大雲山観音寺
竹屋集落にある観音寺に隣接する観音堂で、中には県指定文化財に指定されている「木造如意輪観音座像」が安置されている。
天正元年(1573)に快元という僧が越後より来て、堂を建立した。その後、正徳年中(1711~1715)に再建された。4間四方で、四方に高欄縁を設けている。世間では「子安観音」と呼ばれている。
桜は散っていましたが、参道に植えられた水仙はきれいに咲いていました。
観音堂への石段は鉄製階段で補強。
端正な姿の観音堂がありました。
喜多方市教育委員会による解説板も。
市指定有形文化財 竹屋観音堂
この観音堂は、大雲山観音寺本堂に隣接する観音堂で、会津三十三観音の第8番札所として知られている。
堂の規模は三間四方で南面し、屋根は宝形造、茅葺き金属板覆い、軒廻りは一軒の平行垂木で、西側面に花頭曲線の出入口を設け、堂北面には引戸を設ける。壁面は全体を板壁とする。
堂の柱は円柱で、柱頭に粽(ちまき)を付け、木鼻を施した頭貫の上に台輪を配し、台輪の上に実肘木を付けた平三斗を中備にも配して詰組とする。堂全面には縋破風向拝(すがるはふこうはい)が設けられる。向拝の柱は几帳面取りの角柱で、柱の上下に粽を付け、下部は石製礎盤に乗る。
堂の周囲には擬宝珠勾欄を持つ縁を廻し、擬宝珠には正徳6年(1716)銘が刻まれる。
堂内部の厨子には鎌倉期の「木造如意輪観音座像」(県指定重要文化財)が安置されている。
この観音堂は堂柱の粽や台輪、詰組などの禅宗様と擬宝珠勾欄などの和様の建築様式を取り入れた江戸時代の折衷様建築として貴重である。
市指定年月日 平成18年1月4日 喜多方市教育委員会
中をのぞくと沢山の折り鶴が奉納されていました。
運慶作と伝えられる如意輪観音は、4月8日にご開帳があるそうです。
公式サイトはfacebook。
https://www.facebook.com/takeyakannonji/
観音堂の右手から林の中を歩いて諏訪神社へ。社殿の背後に観音森古墳のピンが立っていました。
急傾斜の苔むした石段を慎重に上がります。
上から振り返った階段と社殿。
上がった先の”墳頂”に祠がありました。
東側は急斜面。
現地では反対側は墳丘が続いている雰囲気でしたのでそちらへ降りてしまいましたが上記の東側に、全長60~70mの前方後方墳(後述)の観音森古墳の前方部が続いていたようです。
西側へ降りてみて振り返った墳丘(後方部先端)側。
後で検索すると福島県文化振興財団による「遺跡調査部」のサイトに行きあたり、青山博樹氏による研究調査コラム「国土地理院の基盤地図情報を利用した古墳測量図の作成」に観音森古墳についての記載がありました。
#081 国土地理院の基盤地図情報を利用した古墳測量図の作成 青山 博樹 | 研究調査コラム | 遺跡調査部
観音森古墳は前方後方墳であることが指摘されながら未測量ですが青山氏は国土地理院の情報から作成した図(下記に直接リンク)によって、
・前方部を東側に向けた前方後方墳であること
・前方部がきわめて低いこと
・後方部が東西方向にやや長いことが
・前方部前端の位置が不明瞭だが全長は60~70m程度
とうことが読み取れ、前方部が低平という特徴により、築造時期については古墳時代前期でも古いことが示唆される、と述べられています。
https://www.fcp.or.jp/iseki/uploads/2020/07/150656f463f525eca36cd571c4328e870ec6d82c.jpg
そんなことが判ってしまうとは驚きです!
諏訪神社の正面側にあった参道から。
参道の鳥居。
鳥居の前から振り返った諏訪神社。時代劇(古代劇?)のロケに使えそうですね。