道作古墳を訪ねたあと、南下して印西市立印旛歴史民俗資料館へ向かった。
が、休館日だった。下調べ不足。土日は開館だが、祝日と月曜が休み。
http://www.chiba-web.com/chibahaku/91/index.html
残念だったが、駐車場のとなりの墓地からの眺めはよかった。
四街道ICから帰ろうと思い、さらに南下すると、地図に「印旛沼公園」が出てきた。折角なので立ち寄ってみた。
左端の駐車場に停めて、右端の展望台まで歩いた。
地図の上側、野球場から少し下がった散策路を歩いていくと、木陰の広場が見えてきた。
印旛沼を見渡せる、眺めのよい芝生の斜面だった。
他に家族連れとカップルの2組だけ。印旛沼から、そよ風が来る。
芝生に座ってしばし休息、贅沢な時間を過ごせた。
芝生スペースの隣が一段高くなって、展望台になっていた。
「師戸城(もろとじょう)跡」の石の説明板があった。下記に転記。
師戸城は、千葉氏の一族であった臼井氏の居城である臼井城の支城として、14世紀に築かれたといわれる。その後何度か改築され、現存するような形となったのは16世紀中頃と推定される。
城主については明らかでないが、江戸時代初期に書かれた「臼井家由来抜書」に名前の見える臼井氏四天王の一人である師戸四郎がこの城に関係があったかとも考えられる。
印旛沼の対岸にある臼井城とは「渡」で連絡され、臼井城の防衛に大きな役割を果たしたと考えられる。永禄9年(1566年)上杉謙信の臼井攻めにもよくその猛攻を防いだが、天正18年(1590年)、豊臣氏による下総攻略で落城し、臼井城と命運を共にした。
本丸、二の丸、三の丸、道場台の4つの郭、外敵を防ぐための土塁、空濠などがみられ、中世城郭としての様式をよく残すとともに本県の歴史を知る上で価値の高い城郭である。
別の場所にあった案内板には、4つの郭の位置が示されていた。芝生の場所は二の丸だった。文章は石碑と同じ。
本丸のあたりの芝生広場にはいくつもテーブルがあったが、時間帯のせいもあるのかあまり人はいなかった。(野球場では少年たちが厳しい監督のもとで守備練習をしていた)
郭と郭の間は、深い空濠がよく残っている。
土塁を切り通している箇所もある。
思わぬところで、よい体験ができた。
この日はこれにて帰路に。次の機会には臼井城の方にも行って見たい。