墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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二ツ山古墳1号墳・2号墳 群馬県太田市新田天良町

前回のつづき。

西山古墳から薮塚駅に戻ったが、次の電車までの待ち時間が長かったので、タクシーで二ツ山古墳群を目指した。

薮塚駅から太田駅方面に一駅目の治良門橋(じろえんばし:難読!)駅から徒歩19分の場所にある。

 

県道沿いのコンビニで降りて地図に従って進むと、それらしき木立が近づいてきた。

 

道の右側に、もう一基。

全長74mと45mの前方後円墳が近接する。

 

全長45mの2号墳からアプローチ。

 

その説明板。

群馬県指定史跡 二ツ山古墳二号墳
指定年月日:昭和59年7月3日
所在地:太田市新田天良町167-172-乙
二ツ山古墳2号墳は、北西に隣接する1号墳と共に、この付近の代表的な古墳である。
墳丘は、主軸を東西にとる二段築造の前方後円墳であり、周囲に堀跡が認められる。
墳丘規模は、全長45mで、後円部の幅32m、高さ6m、前方部の幅22m、高さ3m、堀幅は10mと推定されている。
墳丘は川原石で被われ、円筒埴輪、人物埴輪が確認されている。
主体部は、自然石乱積みの横穴式石室で後円部南側に開口している。現状で奥行7m、羨道幅1m、玄室幅2.8m、高さ1.95mである。
築造年代は、6世紀後半から7世紀初めと考えられている。
1号墳と共に、終末期の前方後円墳であり、南方の寺井廃寺、新田郡衙との関係を考える上で貴重な古墳である。
平成27年3月25日 太田市教育委員会

 

写真部分のアップ。 

 

踏み跡をたどって墳頂へ。 

 

後円部墳頂から先端方向の眺め。

 

振り返っての前方部。比高差は3m。

 

前方部から後円部。

 

前方部先端の裾に降りたところから後円部。

 

振り返っての前方部の先。平地に築かれていることがわかる。

 

解説板に横穴式石室が後円部南側に開口している、とあったのでかなり探したがわからなかった。落ち葉がたまった部分が気になったが…

 

たまった落ち葉を少しよけてみたがわからず。

 

気持ちを入れ替えて、道を隔てた二ツ山1号墳へ。

 

こちらにも解説板。

群馬県指定史跡 二ツ山古墳一号墳
指定年月日:昭和59年7月3日
所在地:太田市新田天良町167-85-乙
二ツ山古墳1号墳は、この地域に所在した古墳群中の一つで、南東に近接する2号墳と共に、前方後円墳である。かつては周辺にいくつかの円墳が見られたが、現在は残っていない。
この古墳は、主軸を北西から南東にとり、全長74m、高さ6mで、2段に構築され、周囲には堀跡が認められる。墳丘はよく原型を保ち、下段の平坦部には二重にめぐらされた円筒埴輪列のほか、人物・馬などの埴輪列があり、墳頂部からは家形埴輪が出土した。
石室は、明治21年(1888)に発掘され、南南西に開口している横穴式石室である。奥行きは約7m、高さ約1.8mから2.1m、奥壁は一石、側壁は下部に大型の石を並べ、上に行くに従い徐々に小さくなる傾向がある。石室内からの出土品は、刀剣類、馬具等があり、東京国立博物館に保管されている。
この古墳の特徴としては、円筒埴輪の配列により、前庭状の施設が設けられている点が挙げられる。
築造年代は古墳文化が終末期に入ろうとする6世紀末から7世紀初めと考えられている。その規模から、二ツ山古墳群の中枢をなしていたものと思われる。また南方の寺井廃寺、新田郡衙との関係を考える上で貴重な古墳である。
平成27年3月25日 太田市教育委員会

 

その実測図。1号墳は北西ー南東に、2号墳は東西方向に長軸を置く。

1号墳が6世紀末から(7世紀初め)、2号墳が6世紀後半から(7世紀初め)とあるので、2号墳の方が先か。前方部の形は1号墳の裾の方が開いているように見える。

 

後円部裾から。左奥に前方部。

 

斜面に置かれた石。石室材?

 

実測図にあるとおり、後円部の南側裾に開口部があった!

 

10cmくらいの隙間にカメラを差し込んで。 

 

ズームで何枚か撮った内の一枚。

 

前方部側の開口部は見当たらなかった。

 

前方部斜面から後円部方向。

 

前方部の上から。形がきれいに残っている。

 

縦位置で。

 

振り返って前方部の隅。

 

逆サイドの隅も。

 

前方部の先の風景。

 

南側から。

左(道の突き当り)が1号墳、右が2号墳。