墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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鼠坂 芥(ごみ)坂 浄瑠璃坂(仇討跡) 歌坂 鰻坂 東京都新宿区市谷鷹匠町、払方町、市谷砂土原町

前回のつづき。市谷の大日本印刷エリア内を徘徊中。 

この周辺は クニャマップ に坂が多く記されていて前から気になっていた場所(中央やや上の2本の谷)

 

中根坂の南で東側に入る小道があった。道の左右は公園を造成中。

 

少し先に鼠坂があった。

かつては上り口の右側に標柱があったようだが今はない。

こちらの方のサイトによると、鼠の通り道のように細くて狭かったからとの由来があった。新宿区の坂(3)市ヶ谷駅周辺

 

「鼠坂」という坂は文京区や港区にもある。どちらも雰囲気のある坂だった。

服部坂 小日向神社 大日坂 鷺坂 今宮神社 八幡坂 鼠坂 東京都文京区小日向・音羽 - 墳丘からの眺め

狸穴坂 鼠坂 植木坂 麻布郵便局(旧逓信省本庁舎) 東京都港区東麻布・麻布狸穴町・麻布永坂町・麻布台 - 墳丘からの眺め

 

路面は修繕直後のようだったが石垣は古そう。

 

上って振り返ったところ。

 

坂の南側は建物の解体工事中。

 

大日本印刷の社員寮だった。

 

坂を上って道なりに右へ曲ると寮の正門。

 

その向かい側の団地も解体目前。

 

あちこちから工事の音が聞こえるエリアに新宿区の説明板があった(下の写真の中央やや右)

 

江戸期に仇討ちが行われた場所。

一帯がオフィス街になったら無くなってしまうのではないか。

新宿区指定史跡
浄瑠璃坂の仇討跡
所在地 新宿区市谷鷹匠町浄瑠璃坂上・鼠坂上
指定年月日 昭和60年11月1日
浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた所である。
事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前より口論となっていた主君の戒名の呼び方をめぐり、刃傷に及び、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。
源八は、近縁の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文12年(1672)2月3日未明、牛込鷹匠町の戸田七之助の組屋敷付近に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。
源八らは、井伊掃部頭へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり6年後許されて全員井伊家ほかに召抱えられた。
平成3年1月 東京都新宿区教育委員会

 

江戸時代の三大仇討ちの赤穂浪士の討入りはわかるが、あとの二つは初めて知った。

 

「浄瑠璃坂の仇討ち」は赤穂浪士の31年前の事件だが、時の老中・井伊直澄が助命に尽力して死罪から流罪へと減刑になった。講談や歌舞伎の題材となった浄瑠璃坂の仇討ちは「武士の範」として江戸で大評判となったとのこと。

方や赤穂浪士事件では幕府の命で46人が切腹したが、どちらの事件も討入り人数が40人以上であること、揃いの火消装束を着用し火事を利用したと言われる等の共通点があり、赤穂浪士たちが手本にしたとも言われているそうだ。(謎解き!江戸のススメ│過去の放送より)

 

もうひとつの、鍵屋の辻決闘(伊賀越えの仇討ち)は、きっかけが男同士の横恋慕が大事件に発展してしまう。鍵屋の辻の決闘 - Wikipedia

 

ちなみに、日本三大仇討ちには、浄瑠璃坂の仇討ちが外れて、 鎌倉初期の曾我兄弟の仇討ちがランクインする。

こちらのサイトの解説がわかりやすい。曽我兄弟の仇討ちとは? (武将ジャパン)

 

いずれも後年脚色されて人気芝居などになったということは、人の性分として「恨みを晴らすことの気持ちよさ」を持っているのだろう。放置でなく法治でないと、m(_ _)m

 

 

仇討ちの場所からすぐ南を右折すると、別の坂が現われた。

 

芥坂(ごみざか)という短い坂。 

 

芥坂は台地下まで通じておらず、大日本印刷の敷地の谷を越えて対岸まで歩道橋が延びていた(中央奥が芥坂)

 

歩道橋の名は「ごみ坂」

 

ここも大きな建物を解体中。

 

逆サイドも。このあたり町の区割りが細かく残るが、市谷鷹匠町の全体が再開発中だった。

 

歩道橋の橋は三股。

 

その先も坂に続く。

 

無名の坂だがいい雰囲気だった。

 

芥坂に戻って右折すると、ゆるく下る浄瑠璃坂。

 

坂下に標柱があった。仇討ちで有名になってしまった坂。

坂名の由来については、あやつり浄瑠璃が行われたため(「紫の一本」)、かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため(「再校江戸砂子」)、などの諸説がある。江戸時代、坂周辺は武家地であった。この一帯で寛文12年(1672)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ、江戸時代の三大仇討の一つとして有名である。

 

坂の途中に立派な石垣が残っていた。

 

下から見上げる浄瑠璃坂。

 

坂を降りて左折し、浄瑠璃坂に並行するバス通りを上り返すと、途中右に上る坂があった。

 

坂の右には真新しい法政大学校舎。

 

歌坂という名前の坂だった。

うたさか
雅楽(うた)坂ともいう。江戸時代初期、この坂道の東側には酒井雅楽頭(後の姫路酒井家)の屋敷があった。(「新添江戸之図」)。坂名は雅楽頭(うたのかみ)にちなんで名付けられたのであろう。

 

振り返ったところ。

 

坂上で左折し、しばらく進むと左手に鰻坂の標柱があった。

 

その説明文。

坂が曲りくねっているため、こう呼ばれた。「御府内備考」によると、幅約2間(3.6m)、長さ約20間(36.3m)にわたり曲って登っているため、鰻坂とよばれたという。

 

ちょっと車は難しい。

 

すぐに90度の連続クランク。

 

坂下から。看板には「二輪車・軽四輪車以外通行できません」とあった。

 

鰻坂は道路を渡った先にも続いていた。

 

坂上から?(スタートから36m以上はあるが・・・)

つづく。