墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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服部坂 小日向神社 大日坂 鷺坂 今宮神社 八幡坂 鼠坂 東京都文京区小日向・音羽

前回のつづき。

小日向台町小学校の南東角から南へ進むとすぐ右手に閉ざされた団地があった。

 

今は開発待ちの感じだが、よく見ると説明板がある。

 

「ニトベ・ハウス」があった場所だった。

新渡戸稲造旧居跡 文京区小日向2-1-30付近

新渡戸稲造 文久2年(1862)~昭和8年(1933)教育者・農学博士・法学博士

南部藩士の子として盛岡で生まれ、明治4年(1871)に上京した。明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。同校卒業後、東京帝国大学専科に学び、さらにアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。

明治24年、メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国、札幌農学校で教えた。明治36年京都帝国大学教授、同39年第一高等学校校長を経て、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長などを歴任した。また拓殖大学の学監(学長)も務めた。その人格主義教育は学生たちに深い影響を与えた。

日本と外国をつなぐ「太平洋の橋」になりたいと若い時から考え、わが国の思想や文化を西洋に、西洋のそれをわが国に紹介することに努めた。国際的にも広く活躍し、大正9年(1920)には国際連盟事務局次長となり、“連盟の良心”といわれた。昭和2年(1927)帰国の後、太平洋問題調査会理事長となった。きびしい国際情勢のもと、平和と求めて各地のこくさい会議に出席するなか昭和8年にカナダで亡くなった。

当地は、明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。

文京区教育委員会 平成25年2月

 

そのまま先へ進むと、見通しのよい坂の中腹に出た。

現地では坂名がわからなかったが、後で山野勝氏の「大江戸坂道探訪」を参照して、服部坂と知った。現在の小日向神社がある場所にかつてあった屋敷の主、旗本の服部権太夫に由来する。生家が近かった永井荷風もよく歩いたと伝えられるそうだ(同書81頁)

「大江戸坂道探訪」 日本坂道学会会長 山野勝著 - 墳丘からの眺め

 

現在の小日向神社。

 

下から上がってきた坂は神社の周囲を廻ってさらに高度を上げる。

 

境内からの近道もある。

 

上記の位置で振り返ったところ。遠くに聳えるのは文京シビックセンター。

 

 登りきったところ、小日向台の南編の一等地にはアパートがあった。

 

と思ったら、こちらも廃墟物件だった。

 

回り込んでいった先の台地の端。1階でも見晴らしのきく好立地。

 

上記は行き止まりの道だったが、一本北に並行して階段道があった。

 

降りて見上げたところ。たしかに手すりがないと厳しい斜度・高さだった。

 

降りた場所は大日坂(だいにちざか)

 

説明板もある。

大日坂(だいにちざか) 小日向2-17と18の間

「‥坂のなかばに大日の堂あればかくよべり」(改撰江戸志)

この「大日堂」とは寛文年中(1661-73)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。

坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。

 この一円は寺町の感する所である。この町に遊びくらして三年居き 寺の墓やぶ深くなりたり 折口信夫(筆名・祝超空1887-1953)

文京区教育委員会 平成元年3月

 

階段の位置から大日坂を右斜めに渡って小道を降りていくと、城壁のような土台のお宅があった。

 

敷地に沿った急坂。

 

坂を降りて見上げる(左の道) 再び城壁のような土台のお宅。

 

上記の右を下ると坂の説明板があった。

鷺坂(さぎざか) 小日向2丁目19と21の間

この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。

この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者 1892~1981)やその父で外交官の堀口九万一(号長城)も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。

足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで「山城の久世の鷺坂神代より春ハ張りつつ秋は散りけり」とある。

文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。

文京区教育委員会 平成18年3月

 

説明板を背にして。

 

左に続く鷺坂。

 

降りた位置から見上げる。ここから廃墟アパートまで戻るとちょっとした登山になる。

 

坂を降りて最初の角を右折。崖に沿って北へ向かった。

 

急峻な崖。

 

その先には今宮神社があった。明治6年に護国寺からこちらに遷座した。

本殿の背後、崖上には民家がある。

 

拝殿の右には大日鷺神社があった。

 

鳥居前にはかつての水窪川にかかっていた橋の床石が残る。

 

石橋の遺構があるおかげで、川だった頃を思い浮かべることができた。

 

神社の左手には階段坂があった。

 

説明板もある。

八幡坂

「八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍らに下る坂をいふ。安政4年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。」と、東京名所図会にある。

明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡神宮があったので、八幡坂とよばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。文京区教育委員会 平成5年3月

 

手すりが2本。

 

中腹から見た今宮神社。

 

登りきるとまた坂道に出た。この背後が鷺坂につながる。

 

ここも八幡坂のつづき。車も通れる部分があった。

 

坂の途中に、石川啄木の下宿跡があった。

石川啄木初の上京下宿跡 音羽1丁目6

盛岡中学校を卒業直前にして退学した啄木は、文学で身を立てるため、明治35年(1902)単身上京した。そして、中学の先輩で金田一京助と同級の細越夏村の旧小日向台にあった下宿を訪ねた。明治35年11月1日のことである。

その翌日、近くの大館光方に下宿先を移した。

啄木日記には「室は床の間つきの七畳。南と西に橡(とち)あり。眺望大に良し。」とある。

与謝野鉄幹・晶子らに会い、文学に燃焼した日々を過ごしたが、生活難と病苦のため、翌年2月、帰郷せざるを得なかった。

文京区教育委員会 平成18年3月

 

登りきって振り返ったところ。ちょっとした達成感があった。

 

さらに斜度のある小道がつづく。

 

左手が鳩山会館の敷地になった。

 

お庭の梅もチラリ。

 

瀟洒な洋館も見えた。入口は台地下の音羽通りの正門からになる。1,2月は休館中。

 建物の設計は岡田信一郎。大正13年(1924)竣工。一昨年に訪れた。

鳩山会館 @文京区音羽 - 墳丘からの眺め

 

そのまま直進すると左手に鼠坂が現れた。

鼠坂 音は1丁目10と13の間

音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。

鼠坂の名の由来について「御府内備考」には「鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へのぼるの坂なり、至てほそき坂なれば鼠穴などいふ地名に類にてかくいうなるべし」とある。

森鴎外は「小日向から音羽へ降りる鼠坂と云ふ坂がある。鼠でなくては上がり降りができないと云ふ意味で附けたさうだ・・・人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にして挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむずかしい・・・」と小説「鼠坂」でこの坂を描写している。

また、”水見坂(みずみざか)”とも呼ばれていたという。この坂上からは、音羽谷を高速道路に沿って流れていた弦巻川の水域が眺められたからである。

文京区教育委員会 平成17年3月

 

中腹から見上げたところ。坂上から見下ろす写真は登ってくる方とのタイミングが合わなくて撮りそびれた。

 

上記の左手は更地になっていた。重機は入りようがないので、家を壊すもの建てるのも大変だろう。

 

隣の敷地が高い。

 

鼠坂には枝道もあった。

 

一番下から。この日最後に訪れた場所が一番きつい坂だった。が、一番ダイナミックで印象に残る坂となった。

最後まで目を通していただきありがとうございました。