墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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泉岳寺 赤穂義士墓所 東京都港区高輪

少し前、昨年11月に訪ねた高輪の泉岳寺。

情報が多くてまとめきれずに下書きのままとしていたが、忘れないうちに。

 

都営浅草線の泉岳寺駅、A2の出口から150mでお寺の入口がある。

天保7年(1836)に再建された中門。元来はこの前に総門もあったとのこと。

 

中門のそばには由緒ありそうな日本家屋があった。 

 

中門の先にはみやげもの屋などもあり、短いが門前町の雰囲気。

 

 境内の案内板。高輪台の台地の端(下)に境内が、斜面に墓所がある。

 

山門は天保3年(1832)の再建。2階に十六羅漢が安置される。

見逃してしまったが1階天井には「江戸三龍」のひとつの銅彫大蟠龍がはめ込まれているそうだ。

 

 山門の前・右手に大石内蔵助良雄銅像

この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていましたが、泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したものです。
内蔵助が、当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。 

 

秋の日の明るい境内だった。 

 

泉岳寺に関する説明板。

萬松山 泉岳寺
泉岳寺は曹洞宗の寺院です。
曹洞宗のご本山は2つあり、1つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう1つは横浜鶴見の総持寺です。
道元禅師の主著は仏教の神髄を表した「正法眼蔵」という95巻に渡る書物です。
さて、泉岳寺は慶長17年(1612)に「門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。
(現在のホテルオークラの近く)

しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺はできあがったのです。
浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。
一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。
その家風は引き継がれており、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が、現在もいます。

 

 境内から振り返っての山門。見事な松。

 

こちらは本堂。

 

檀家のみが入れる墓地の門があった。

 

本堂に向かって左手の義士の墓所へ向かう途中に赤穂義士記念館がある。入館料は一般500円。赤穂義士の身の回りの品々や忠臣蔵のビデオなどが見られる。 

境内案内|泉岳寺について|曹洞宗 江戸三ヶ寺 萬松山 泉岳寺

 

赤穂義士記念館とセットで、向かいの講堂2階にある義士木造館も見学できる。回廊に並ぶ人形は壮観だった。


義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれている、とのこと。

 

浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際、その血がかかったと伝えられている石と梅の木もある。

 

その先にもいい雰囲気の墓地があったが関係者以外は立入禁止。 

 

赤穂義士の墓所へも石段を上がる。 門は区の文化財。

浅野長矩及び赤穂義士墓所門
切妻造、本瓦葺、一間一戸棟門で、もとは赤穂藩浅野家の鉄砲州上屋敷(現中央区)の裏門として建築されたものです。大石良雄が屋敷を訪れる際によく出入りした門といわれ、明治初年に取り払われる際に、この場所に移築されました。大名屋敷の江戸藩邸門の様式を残す遺構として大変貴重です。
平成11年2月11日 港区文化財総合目録登録 港区教育委員会

 

振り返って山門方向。右が記念館、左が講堂。 

 

上って振り返った墓所門。

 

 玉垣で囲まれたエリアが赤穂義士墓所。

 

大石内蔵助良雄の墓には屋根がついていた。

 

そのすぐ右隣に浅野長矩(内匠頭)の墓がある。

 

40数基の墓石の数を目の前にし、非常な大事件であったことを実感した。

 

墓石は質素だった。

 

大石主悦の墓(と十三回忌碑)にも屋根囲いが。

 

墓碑の解説。 

義士墓解説
赤穂城主浅野内匠頭長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して刃傷に及びし咎により即日切腹を仰せ付けられた。家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に四十七士が結束して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄15年(1702)12月14日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供へ成就を報告し、敢えて官に裁きを求めた。
義士一同は、12月15日夕刻細川家(17名)、松平家(10名)、毛利家(10名)、水野家(9名)の四家に預けられた。翌元禄16年2月4日、幕府は苦心の末、武士の体面を立て、切腹せしめた。直ちに主君の墓側に各々四家に分けて葬られた。

 

赤穂事件 - Wikipediaには、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった理由は史実としては不明であること、元禄の頃は「仇討ち」は子が親の仇を討つなど目上の親族のための復讐を指していたので本件が「仇討ち」か「復讐」か意義については論争があるとあった。

 

そもそもの理由が「不明」とは・・・

上記のWikipediaには吉良邸における吉良側の死者も15人とあった。

 

 

ちなみに泉岳寺山門に向かって右手に、距離の長い魅力的な細道がある。

massneko.hatenablog.com

 

他にも見どころがあって来ていたが、泉岳寺のお寺に参るのは今回が初めてだった。

massneko.hatenablog.com

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