前回のつづき。
鰻坂から再び中根坂の北端へ戻った。石垣の向こうは牛込第三中学校。
石垣の前を東西に伸びる通りには、西端にある坂名がついている。
といってもこの標柱の位置からは坂は見えない。
左に長く続く囲いは、大日本印刷市谷工場解体工事。
旧DNP営業ビル。
着工は7年前に遡る。来年末には地上25階(最高部125m)の「事務所・工場」が建つ。
まだ前のが残っているのに2年で建つのか?
背後のDNP市谷加賀町ビルも地上25階で高さ125mなので、ほぼ同じ規模のものがここにも並び建つことになる。
工事囲いの西のライン。東のラインには中根坂があるがこちらにも凹んだ坂があった。
そこは曲らずに銀杏坂通りを直進して振り返ったところ。右下に説明板がある。
柳田國男の旧居跡だった。
遠野物語百周年(2010)
「遠野物語」誕生の場所 柳田國男旧居跡
日本民俗学の父・柳田國男(1875~1962)は、現在、大妻女子大学加賀寮となっているこの地にあった旧柳田宅で、小説家・水野葉舟の紹介により岩手県遠野市出身の佐々木喜善(1886~1933)と出会い、佐々木が語った遠野に伝わる不思議な話を119話にまとめ、明治43年(1910)に「遠野物語」として発表しました。
柳田は、明治8年(1875)兵庫県神崎郡福崎町に松岡家の六男として生まれ、15歳で上京。青年期から文学に親しみ、田山花袋、島崎藤村、国木田独歩らと交流がありました。東京帝国大学卒業後は農商務省に入り、翌年の明治34年(1901)に大審問院判事であった柳田直平の養嗣子として入籍し、昭和2年(1927)に世田谷成城に移るまでの27年間をこの地で生活しました。
「遠野物語」の話者となった佐々木は、当時早稲田大学在学中で、この旧柳田宅から徒歩で1時間弱のところ(現在、凸版印刷株式会社トッパン小石川ビルがある文京区水道1丁目)に下宿しており、毎月のように、柳田の求めに応じ旧柳田宅を訪れ遠野の話をしました。
「遠野物語」は、日本民俗学黎明の書として、また、日本近代文学の名著として、今なお多くの人に読み継がれています。平成22年11月岩手県遠野市
自分は柳田國男は岩手の人だと思っていたが、兵庫県福崎町の出身だった。
そしてこんなに広大なお屋敷に住んでいたとは。
その先の自販機だけになったお店。公衆電話もあった。
その先でやっと道に傾斜が付きはじめた。
道路脇に標柱がある。
いちょうざか
この坂道の北側に旗本久貝家の屋敷があり、屋敷内に銀杏稲荷という社が古くからあったので銀杏坂と呼んだという(「御府内備考」)
切り通した名残なのか、北側のマンション敷地は煉瓦塀の擁壁で一段高くなっていた。
この近辺の加賀町2丁目は縄文人の頭骨が出た場所でもある。
坂下から見上げる銀杏坂。
銀杏坂は外苑東通りに突き当たった。拡張工事が進行中。
坂も付け替えられている?
曙橋方向へ降りる、新五段坂。
靖国通りの新宿方面から上ってくる道。
交差点の名は合羽坂。上記と逆に靖国通りの市ヶ谷方面から上る坂の名だった。
曙橋の親柱。靖国通りの上をまたぐこの陸橋は1957年に完成している。
橋名は一般公募で選ばれたそう。地下鉄の駅名は橋名からついた。
橋上から東の市ヶ谷方面。
橋上から西の新宿方面。
橋上から防衛省のタワー。
曙橋の下、靖国通りから。上は外苑東通り。
つづく。