10月4日(土曜日)、郡山の大安場(おおやすば)古墳で「古墳まつり」が開催されるという情報があったので、家族(上の子が学校で除く)で出かけてきた。
JR東日本の週末パス、大人8,730円、子供2,560円を買ってみた(+新幹線代)
郡山駅前バスターミナル。2番のバスで金屋で下車、徒歩20分とあったが、次のバスが1時間後(午前、午後数本しかない)ので、タクシーを使った。
大安場史跡公園までは2,580円(一旦、金屋バス停で帰りの時間を確認した)
史跡公園には「ガイダンス施設」が併設されていて、土器や石製品、ジオラマなど結構広いスペースで盛りだくさんの展示があった。当日は「お祭り」で、地元中学生によるコーラスの歌声が響いていた。
古墳(1号墳)は、ガイダンス施設から丘を登った場所にある。チラチラと墳丘が見えていて、期待感が盛り上がる。
上り口の案内板。古墳は丘陵のカーブに合わせて造られているので、左右対称になっていない。
階段を上がる。比高差15mの先端なので周囲から目立つ位置取り。
階段を上りきると、木々の間から雄姿が見えてくる。
全貌が姿を現した。手前が前方部。
・大安場古墳 前方後方墳 4世紀後半 全長約83m
前方部への階段。
階段から西側の眺め、前方部の裾。丘陵部に土台をつくり、その上に墳丘を築いた形に復元されていた。
前方部から後方部。左右対称でないので、階段のつけ方もいろいろ検討されたのだろう。
右下(西側)を見ると、石釧の形の屋根のガイダンス施設がみえる。
振り返ると2号墳(円墳)がある。
後方部の先(南側)にも、丘陵は続いたいたようだ。
後方部に上がって前方部を見る。
後方部の墳丘上には、竪穴の埋葬施設の位置が示してある。
埋葬状況の説明板。
木棺の長さが9mもあるので、縦に2人並んでいたとも考えられるそうだ。
後方部墳丘上から、くびれ部の裾あたり。
後方部からの素晴らしい眺め。
思わず両手を広げたくなる。
後方部先端から南側の眺め。
こちらは南東側の眺め。
南東側には階段がついており、降りることができる。
降りきった場所に東屋がある。屋根は高倉を模している。
1号墳の説明板もあった。
この古墳は、4世紀後半につくられた前方後方墳です。南にせり出した尾根を切り離し、土を積んで形を変えた古墳で、二段につくられた台形の部分を前方部、四角の部分を後方部といいます。
後方部は、古墳の主が葬られ、前方部は通路や埋葬するときの儀式の場と考えられています。
古墳の全長は約83mあり、前方後方墳としては東北地方最大で、ここに葬られた古墳の主は、当時この地方を中心に、阿武隈川流域を治めていた豪族と考えられます。
古墳平面図の形をした石のテーブル。
前方後円墳(プラス壺?)型の水飲み場。
石釧型の花壇。
右側の道をまた登っていく。
右側には民家。新興住宅地のようだ。
上りきると2号墳。右手前が2号墳、奥は1号墳。
2号墳の説明板。
1号墳の勇姿をもう一度味わう。
2号分の先は、林になっている。この中に、3,4,5号墳があるとのことだが、よくわからなかった。
丘の先に、雰囲気のある神社があったが、仕切りがあって行けなかった。
下記はWikipediaによる。つい最近の発見だった!
1991年に発見され、郡山市教育委員会が1996年度から1998年度にかけて発掘調査を行った。
1号墳は、阿武隈川流域では最大級の古墳であり、また前方後方墳としては東北地方全体で最大規模の古墳である。同じ福島県内でも、会津地方では前方後円墳が卓越しているのに対して、中通り地方に所在する本古墳は前方後方墳であり、前方後方墳をさかんに築造した下野国那須地方との関係がうかがえる。
(1号墳は)前方部を北に向ける前方後方墳であり全長は約83メートルと推定できる。これは、前方後方墳としては、今のところ東北地方最大の規模である。
墳丘は一部改変を受けているが、もともと存在した自然丘を削り出した工法によって、前方部が二段築成、後円部が三段築成で造られている。後方部の墳丘斜面から、赤彩された底部穿孔(底部に穴をあけた)の壺形土器が多数出土しており、本来は墳頂に据え置かれていた可能性が高い。
後方部墳頂はかなり削平を受けており、表土のすぐ下で南北方向の主体部が確認された。長さ10メートル、幅2メートルの粘土棺の床をもうけ、そこに長さ9.2メートルの長大な木棺(割竹形木棺)を安置している。棺内の北よりに朱粒がまかれており、その南から腕輪形石製品(「石釧」~東北地方で初めての確かな出土例)1点が出土している。それ以外の副葬品は棺内南半部に置かれており、大刀、剣、槍、鎌、板状鉄斧などが出土した。
築造時期は、出土遺物と築造方法などから、4世紀後半頃と推定される。
2000年9月6日、国の史跡に指定され、他の古墳とともに大安場史跡公園として整備・保存がされている。
つづく。