池上本門寺の南隣り、同じ台地の上に永寿院というお寺があり、そこに江戸時代の万両塚と、弥生時代住居跡、堤方権現台古墳(復元)がある。
舌状台地の南端の「一等地」であるから、大昔から時代が変わっても人の手がはいり続けてきた場所。
万両塚は、徳川家康と側室お万の方の孫であり紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室であった芳心院(1708年没)の墓所。
建設費が当時の一万両に及んだといわれ「万両塚」と呼ばれている。
18世紀の1両は6万円ほどらしいので、現在の6億円ということか。
2003年の発掘調査で、宝塔内から法華経巻子本八巻と火葬骨の収められた青銅製骨蔵器が発見されたが、周囲からは弥生時代中期~後期の竪穴住居跡が10棟。そのうちの一つの遺構を保存のために埋め戻し、その直上にレプリカが設置された。
万両塚の南東に接する堤方権現台古墳からは馬具や埴輪が出土している。
弥生時代住居跡のレプリカ。土のように見えるが強化プラスチックのようだ。
土器が埋まっている様子も細かく再現されている。
隣り合ってトレンチの再現もある。
トレンチの壁に、時代ごとの地上の様子が描かれていてわかりやすかった。
弥生時代は竪穴住居が並ぶ一大集落だった。
古墳時代には住居跡の土を積み上げて古墳が造られた。
江戸時代には万両塚が築かれ、古墳には神社が建てられた。
昭和7年には古墳の上に住宅が建てられた。
平成21年に「廃屋状態になっていた木造住宅=実は作家森村桂氏(2004年没)旧宅」を解体撤去され、調べたら床下30cmから馬具や埴輪が出たそうだ。
トレンチの横に円墳が復元されている。
円筒埴輪や「踊る人々」埴輪のレプリカが飾られていた。
直径40mの円墳だったが周囲が宅地である等の理由で10mに縮小されて復元されている。
万両塚の前(南側)にある、万両塚遺跡霊園には墓碑がぎっしり並んでいた。
上記の説明内容は、永寿院さんのサイトを参考にさせていただいた。
とてもわかりやすく充実しているので「見てから現地に行く」方がよいかと思います。