墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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赤磐市立 山陽郷土資料館 岡山県赤磐市下市

両宮山古墳と一部の陪塚を訪ねた後、北東に2km半の赤磐市立山陽郷土資料館へ向かった。

 

赤磐市役所の並びの敷地に立派な建物が。

 

「令和元年度 赤磐市山陽郷土資料館企画展 丘の上の遺跡群~山陽団地発掘50周年~」という非常に興味深い企画展が開催中だった(2019/12/8で終了)

 

両宮山古墳の北側に広がる山陽団地は昭和44年に計画され開発されたが、なんと古墳が77基あったとのこと。

ごあいさつ
山陽団地の開発に伴う発掘調査から50周年を迎えた本年度、当館では山陽団地から発掘された考古資料の展示会を開催することにいたしました。
昭和44年に計画決定した「岡山県営山陽新住宅市街地開発事業」に伴う発掘では、集落遺跡7、土壙墓遺跡2、方形台状墓4、古墳77基の総計90もの遺跡が存在した一大遺跡群が出土しました。当時は開発事業が多く行われ、文化財保護の重要性が現在ほど認知されていませんでしたが、山陽団地では文化財保護にできる限り配慮し、図面や写真での記録保存を行ったほか、一部遺跡を公園として保護しています。
この度の企画展では、山陽団地開発を契機に検出された遺跡群を「山陽団地内遺跡群」と呼称し、発掘調査によって出土した考古資料と現場で撮影された写真を展示し、明らかになった山陽団地の遺跡群の様相を振り返ります。(後略)
令和元年 赤磐市教育委員会・赤磐市山陽郷土資料館

 

そのうち30基が保存されているそうだ。 

保存された古墳
山陽団地遺跡内では77基におよぶ古墳が確認されました。
全ての古墳を保存することは難しく、協議の結果、原則として古墳群ごとにまとまりをもった形で、公園や緑地内に取り入れて保存されることになりました。
野山古墳群をはじめ、便木山(びんぎやま)古墳群8基、宮山古墳群5基、用木6号墳、岩田2号墳・4号墳・14号墳の合計30基が現状保存されています。
階段の壁面には、保存された古墳の団地造成時と現在の写真を展示しています。ご覧になりながら、2階展示室へお上がりください。

 

半数以上は削平されてしまったが、それでも”誰か”の活動があって、これだけまとまって残ったのだろう。

 

写真展示が主の企画展示。

 

等高線地図を見ると、尾根上・尾根先端に遺跡が築かれていることがわかる。

削平された●印の多いことも。 

上記の地図の左下には両宮山古墳の後円部が見えている。 そのような近さ。

 

わかりやすい、立体地図による解説も。

丘の上の古墳
山陽団地内遺跡群は、古墳時代に77基の古墳が築造されました。
古墳時代前期には、用木1号墳・3号墳などが築かれます。用木1号墳は墳長31mの円墳で、古墳内部から銅鏡をはじめとして鉄剣や多数の玉類や銅鏃が出土しました。用木3号墳は墳長42mの前方後円墳で、山陽団地遺跡群の中で最初の定形化された古墳と考えられます。
古墳時代中期には用木11号墳や四辻1号墳・5号墳、宮山4号墳が造られます。方墳を中心とした墳域を区画する溝や葺石を施す古墳が見られます。四辻1号墳と宮山4号墳では、円筒埴輪・形象埴輪や墳丘の上で祭祀に使われたと思われる須恵器が出土しています。
古墳時代後期になると横穴式石室が採用され、岩田6号墳から14号墳までの9基が丘陵斜面に築造されました。

 

山陽団地が造成されたエリアでは、弥生時代から人の暮らしがあった。

丘の上の集落群
山陽団地開発に伴う発掘調査では、弥生時代の集落跡が6か所発見されました。その中でも丘陵の中央部に所在した用木山遺跡では、約12,000㎡の調査区に弥生時代中期から後期にかけて竪穴住居が約110棟、高床住居2棟が検出されました。遺跡からは土器や石器・分銅形土製品など豊富な考古資料が発掘されました。
隣接する惣図遺跡とともに、平均傾斜30度の急斜面を大きく掘り込み、地形の低い側に埋め出して階段状の平坦面を造成して住居跡が建設されました。大規模な造成によって築かれた山住集落の様相をうかがうことができます。
弥生時代後期以降、集落は丘陵の高地から丘陵裾部の岩田大池遺跡や門前池遺跡へ移動しました。

 

なんと弥生人も、斜面を大規模に造成して住居を築いていた。2000年前も団地だった?

 

2階はロの字形の回廊で、豊富な資料(特に古墳時代)が展示されていた。

「丘の上の土壙墓群」のコーナーには、出土した土器棺。

 

近辺の主要な墳墓・古墳を時代順に示した、わかりやすい図表。

 

正崎2号墳出土の武器・武具

 

赤磐市正崎に「所在していた」古墳。

 

遺体は木棺ごと朽ちても、床面に「人の形」が残っていた。

 

小札(こざね)を多用した鎧冑。(肩部は復元)

 

宮山4号墳出土の家形埴輪片。

 

四辻1号墳出土の鉄剣や把手付高坏(須恵器)など。

 

用木1号墳出土の銅鏃。

 

用木2号墳から出土した鏡。

 

岩田1号墳出土の台付き子持須恵器や円筒埴輪。

 

岩田1号墳からは人物埴輪の頭部も。

 

岩田6号墳出土の銀象嵌八窓鍔。

 

岩田14号墳からは豊富な副葬品が出土した。

岩田14号墳
本古墳は岡山県営山陽新住宅(現赤磐市山陽)市街地開発事業に伴い昭和48年10月16日から同年11月22日にかけて発掘調査されました。
当初は本古墳の存在は知られておらず、地下に埋没していたのを偶然掘り当て発見したものです。
古墳は、直径約20mの6世紀後半に造られた円墳で、横穴式石室を有しています。石室は現存長11.8mを測り、天井石と側壁の一部はすでに持ち去られていました。
しかし内部の保存状況は良好で石室内より7つの木棺が確認され、この7棺以前の埋葬も行われていました。
床面には須恵器308個体・土師器45個体・耳環17点・トンボ玉等玉類86点・環頭大刀などを含む148点の武器・武具・鉄釘・鎹・紡錘車等合計700点を超える豊富な遺物が副葬されていました。
幸いなことに本古墳は発掘調査終了後残されることになり、現在赤磐市山陽3丁目愛宕公園内に保存されています。

 

見事な環頭大刀に目を奪われた。

 

こちらは刀身含めて87.5cm残存。

 

日本各地と韓国で出土した、単龍・単鳳環頭のパネルがあってとても面白かった。 

 

新納先生の解説文パネルも。

装飾付き大刀が語ること
新納 泉
6世紀になると金銅や銀の装飾を施した大刀が多くなる。そうした装飾付き大刀のひとつの祖型となるのは、百済の武寧王が身につけていた単竜環頭大刀である。武寧王の即位は501年で523年の没、公州の栄山里古墳群の中に葬られている。最近錆落としが行われ、環頭部の精緻な文様がいっそう鮮明になった。金の細粒を用いた細金細工は列島内の資料にはみられない手のこんだ装飾である。
この環頭大刀の環周の部分には、二匹の竜が浮き彫りになっているが、これが少し崩れた文様をもつ単竜環頭大刀(岡山県岩田14号墳出土)や単鳳環頭大刀が列島内で出土しており、その後の文様退化のプロセスも明らかになっている。どのような経緯で、武寧王の大刀を模したものが列島内で製作され始めたのかは、いま一つはっきりしないが、それを模してつぎつぎと単竜環頭大刀が製作されたと考えるもの一つの解釈であろう。いずれにしても、百済の王と列島内の王たちとの交渉を物語る重要な遺物である。
1989年「古墳時代の王と民衆」王と王の交渉

 

岩田14号墳からの武具や馬具、須恵器。

 

正免東古墳(消滅)出土の蓋形埴輪も展示されていた。

 

こちらは岡山市の陣場山遺跡群・石相1号墳の周辺から出土した埴輪棺。

埴輪棺には円筒埴輪などを使った転用棺と、専用に作られた特製棺があるそうだが、これは円筒埴輪に見られる透かし孔がないので「特製棺」

埴輪棺は全国で500基程度が確認されるが近畿地方に集中し、岡山県にも30基ほどあって、うち13基が陣場山古墳群で見られるとのこと。

 

さらには岡山エリアで多くみられる「陶棺」

こちらは岩田8号墳出土。

 

蓋に突起とブツブツ模様がある。

 

こちらは旧山陽町の吉原3号墳出土品。

 

こちらの半分だけ残っているのは同じく吉原1号墳から。

 

短辺側の正面から。

 

こちらは県重要文化財の指定を受けた、吉井町小枝2号墳出土の装飾付陶棺。

短辺側に、蓮のつぼみを思わせる文様がレリーフ状についている。

 

詳しい解説も。

 

陶棺の奥には備前国分寺跡の展示物。郷土資料館にはもちろん縄文期や弥生期など古墳時代以外の展示もあった。

 

資料館見学後、予定に入れていなかった山陽団地に残る古墳(岩田14号墳)へ行ってみることにした。