前回の田中36号墳ですが検索すると下記の”現説公開サイト”にて、動画も含め詳細な情報に接することができました。
田中古墳群(36号墳)現地説明会(2007/9/17)配布資料
田中王塚古墳への入口は、そこから80mほど先。
広範囲のマップで見ると、安曇川が平地に出ようとする、右岸の丘陵先端部に立地していることがわかります。
下記のサイトも今回知りました。地形が非常にわかり易い!
こちらが田中王塚への入口。
入口右側にあった安曇川町による解説板。
安曇陵墓参考地
当初は帆立貝式古墳で、周辺にある高塚4基の陪塚と共に宮内庁の所管となっております。「王塚」または「ウシ塚」と呼ばれ、地元では応神天皇の皇玄孫彦主人王の墳墓と伝承しています。
伝承では、彦主人王は近江国、北越五ヵ国を刺史として治めておられました。越前国坂中井の里より妃として迎えられた振媛さまは垂仁天皇の子孫にあたられkの山崎の地で三つ子をご安産になりました。三王子の弟君彦太王は後に中興の名君第26代継体天皇となられました。彦主人王は王子が5歳のときお亡くなりになりましたのでこの地に葬られたと伝えられています。当墳は大小40数基の塚が散在する王塚田中古墳群の最大のものです。
安曇川町
道路の背面側には高島市による解説がありました。
田中古墳群 (滋賀県高島市安曇川町田中字山崎)
田中古墳群
高島平野の中央を流れる安曇川右岸に広がる泰山寺野台地の東端部一帯に位置します。昭和45年に行われた滋賀県教育委員会の遺跡分布調査により、その存在が明らかになりました。平成21~24年にかけて高島市教育委員会が実施した測量調査によって、古墳の総数は70基にのぼることが判明しました。田中王塚古墳(1号墳)
田中古墳群の北端には、古墳群で最大の大きさを誇る「田中王塚古墳」が存在します。現在、田中王塚古墳とその周囲の古墳4基は、継体天皇の父「彦主人王(ひこうしおう)」の陵墓「安曇陵墓参考地」として宮内庁が管理しています。立ち入りは制限されてい すが、周辺の地形測量から、全長約70m、高さ約10mの「帆立貝形」(円墳とする説 も有ります。)を呈する古墳です。築造時期は、周辺から採集された埴輪の破片や古墳の形から、5世紀中葉と考えられています。古墳の規模や造られた時期から、田中古墳群の中心的な古墳 (盟主墳)と考えられています。その他の古墳(2号墳~70号墳)
田中王塚古墳以外の古墳は、円墳や方墳を主体に構成され、10m~20m程の大きさです。埋葬施設は、これまで考えられてきた「木棺直葬」の他に、「横穴式石室」が存在します。造られた時期等によって異なるものと考えられます。これらの古墳の築造時期は、かつて田中古墳群から出土し、現在、田中神社に所蔵の土器や36号墳の発掘調査の成果から、5世紀中葉~6世紀後葉にかけて造られたものと考えられています。このことから、田中古墳群では、盟主墳とされる田中王塚古墳が造られる前後から、造墓活動が継続的に行われ構成された古墳群で、継体天皇擁立に尽力 ・した三尾氏一族の古墳群と考えられます。(後略)平成28年3月 高島市教育委員会
古墳分布図の部分。ポコポコとかなりの密集度です。
檜の参道を100mほど進むと
田中王塚古墳の前方部先端側(造り出し側?)に出ました。
宮内庁による高札は簡易版。
田中王塚古墳(1号墳)を含む4基は、墳丘がロープで結界されています。
高札の左、”前方部”左裾側から。左奥が”後円部”
高札の右側(北東方向)へ、ゆるやかな下り斜面を降りていきました。
1号墳に寄り添うように5号墳。
5号墳の墳頂は窪んでいるようでした。
遊歩道を挟んだ南側には4号墳。
古墳の番号は、先の”現説公開サイト”に掲載されている分布図(県教委:1971年より)を参考にしています。
その先で分岐がありました。
解説文は道路沿いにあったものと同じです。
笹が伸び始めた程度の道でしたが、時間の関係で”深入り”は次の機会としました。
5号墳・1号墳を左回りに一回りしました。左が5号墳、奥が1号墳。
左が5号墳、右が1号墳。
1号墳・田中王塚古墳は高札の背面に回ったほうが墳丘がよく見えます。
丘陵尾根あたり。左が1号墳。園路には葺石でしょうか。
高さは10m、全長70mということは、”円形部分”の径は50~60mくらいでしょうか。
なかなか大きいです。
小さな前方部(または造り出し)
1号墳の南西側に2号墳にも結界がありました。
2024年6月上旬訪問