墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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物集女車塚古墳 京都府向日市物集女町南条

久津川車塚古墳群をツアーで巡った後は、旧巨椋池の対岸、向日市の古墳をいくつか訪ねました。

直線距離だと北西に12kmほどですが、この平地を横断する公共交通機関は無いのですね。北に四条・烏丸まで上がって阪急に乗り換えて南西に下りました。

 

最初に向かった物集女車塚(もずめくるまづか)古墳は、東向日(ひがしむこう)駅から徒歩15分ほど。

公園として、きれいに整えられた墳丘です。入口は南西の後円部側。

 

墳頂に一本残された木が、冑の飾りのようなアクセントになっています。

 

向日市のサイトによれば、6世紀中頃に築かれた墳丘長約46mの前方後円墳で、淳和天皇(840年)の棺を運んだ車を納めた地という伝承が「車塚」の名の由来とされているそうです。

物集女車塚古墳/京都府向日市ホームページ

 

現地説明板を分割で。

物集女車塚古墳
今から200年ほど前、江戸幕府は歴代天皇のお墓(御陵)を定めるため調査を行った。その結果、物集女車塚古墳はまず、淳和天皇の陵の候補となる。しかし文久年間(1860年代)の調査では、はじめて「前方後円に築たる古墳」と記録され、大原野小塩山方面に陵の参考地は移された。こうした経緯を反映して地元では、この古墳が「淳和天皇の霊柩車を埋めた塚」と言い伝えられてきた。

1920年代の後半(昭和初年)から前方部の崩壊が進み、古墳の保存・修景を目的に、昭和58年(1983)から本格的な考古学調査が開始された。荒れ放題の崖を丁寧に掃除すると、地盤の地層の上に古墳の土が盛られている。高台の地蔵を基盤に、その上に何枚もの土層を積み置く作業によって、30度をこえる急勾配の墳丘は、崩壊や雨水による浸食をまぬがれてきたといえる。

古墳のかたちは、墳丘の裾ののびや、後円部と前方部の付け根(くびれ部)を見ると対称的になっておらず、前方部の東、つまり平野側の裾は凸形にふくらみをおびている。古墳の大きさは、削られた部分を復元すると長さ43~48m、高さ7~9m程度である。墳丘面は2段の平らな面(テラス)と上下2つの急な斜面で構成される。墳丘中程のテラスは北が広く、南が狭いが、後円部の南・西側にむけて不明瞭になる。上位の斜面の下半部には、人間の頭ぐらいの大きさの礫を使った石組み(葺石)が設けられている。一方、テラスには小形の円筒埴輪が列をなして並ぶ。

公園の北西あるいは北部では、地盤の地層を掘り込む幅6mの大きな溝がみつかっている。古墳時代中期の大形古墳のような周濠にあたるものではなく、西側の高台をの間を区画する施設と見られる。古墳の南側のくびれ部の地下では、方形状に巡るとみられる埴輪列がみつかり、くびれ部位置に凸形の「つくり出し」のような施設があったとも推定される。

石室内部の発掘調査の際に、石組みの部分的な崩壊の跡がみつかり、特に石室入口(羨道部)のひずみや石材の割れが目立った。そこで、石室の解体・復原・壁材の修理を行うこととなった。後円部南半部の墳丘の土は大きく上部層、中部層、下部層の3層に分かれている。石室は、大地に穴を掘りくぼめ、側石を積みならべ、その隙間を中・下部層の土を充填して作っている。これらの地層は石を石をつなぐ接着材の役目をする。下部層は羨道部の北半部と玄室を覆っており、中部層はそのまま墳丘の骨格となっている。側壁がひずんだり、はらみ出した部分では、墳丘土を石材が分離したり空洞ができていた。

当古墳の整備は平成4年度から3か年をかけて、京都府の緑と文化の基金助成金を得て実施したものである。
平成7年(1995)1月 向日市教育委員会

 

後円部先端から、まずは左手側(北)へ。

 

墳丘の斜度は30度。踏み跡はありますが登ってはいけません。


前方部右裾から。


その右裾先端が道路で削られています。


後円部側に戻って、反対の南東側へ。

 

横穴式石室への階段が付いていますが、入口はしっかり閉鎖されていました。

 

石室内には二上山の凝灰岩を組み合わせた家形石棺が納められています。

石室と石棺
石室は石棺を納める玄室と、玄室への通路にあたる羨道からなる。石室の床面には小さな玉砂利が敷かれているが、その下には複雑な構造の石組の溝を設置し、排水に努めていた。玄室には3~4回の埋葬跡が認められる。最初の埋葬には二上山から切り出した凝灰岩の板材を組み合わせて作る家形石棺を用いた。石棺の側面や蓋石には縄掛突起と呼ばれる突起が作り出され、内面にはベンガラが塗布されている。発掘したとき石棺の前面に散乱していた2組の石材は、本来石棺上に載せられ、副葬品の陳列棚として用いられた可能性がある。
石棺内からは多数の副葬品が出土した。中でも特異な金銅製冠や三輪玉等の存在は、墳丘の形態や出土埴輪の特徴等と合わせて、古墳に埋葬された乙訓地方の王が、淀川沿岸~大阪湾岸、特に紀伊周辺と関係が深いことを示す。かつ、滋賀県や福井県の古墳等とも強い共通性がみられる。6世紀前半、大和朝廷の混乱の中、ここ乙訓地方には、北陸から出た継体天皇の「弟国宮」がつくられる。当古墳の埋葬者も継体擁立勢力と従属関係をもち、これらの政変と無縁ではなかったようだ。
平成7年(1995)1月 向日市教育委員会

 

道路からその入口を。

 

その下の擁壁には排水溝の説明板。

現在も機能する石室の排水溝
物集女車塚古墳の横穴式石室の床面下部には、室内へ浸透した雨水などを外部へ導く、極めて入念に作られた排水溝がある。玄室では四壁沿いに、羨道部では梱石(しきみいし)までの両壁沿いと中央部とにあり、これらは合流して墳丘外へ抜ける。
この構造は、玄室から梱石までは板石を逆三角形に組み合わせたもの、梱石から羨門までは素掘りの溝に板石で蓋をしたもの、前庭部から墳丘崖面までは板石をロ字形に組み合わせたものと場所によって異なる。
この解説板の中央下部から顔をのぞかせている排水溝は、整備工事に際して復元したものである。長雨が続いたときは、石室を除湿する水が少しずつ流れでる。
千数百年を経過しても機能する小さな排水溝ひとつ取っても。古代人の英知が伺える。
平成7年(1995)1月 向日市教育委員会

 

写真ではなく、実物(復元)でした。

 

前方部左裾から全容を。

 

削られた部分を。

 

グーグルアースで。

2024年4月下旬訪問

 

年に一度の石室公開は、今年は5月25日~6月2日で実施されるそうです(要予約)

史跡乙訓古墳群物集女車塚古墳の横穴式石室を公開します。/京都府向日市ホームページ

スマホアプリで、AR・VR体験ができるとのこと。

墳タビ!物集女車塚古墳/京都府向日市ホームページ