墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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島の山古墳 奈良県磯城郡川西町唐院

前回のつづき、結崎駅から西に歩いて寺川に架かる井戸橋を渡ったあたりから望んだ島の山古墳。4世紀末から5世紀初頭にかけて築かれた墳丘長200mの前方後円墳。

左(南東)が前方部、右(北西)が後円部です。

 

途中の住宅地に石切山古墳のピンが立っていましたがわからず、島の山古墳の東側くびれ部あたりに出ました。

 

そこから左、前方部。

 

右、後円部。

 

後円部方向へ進み始めると説明板。


東造り出しの発掘調査の解説でした。

島の山古墳東造出(つくりだし)の発掘調査
ここでは東側の造出を検出しました。
造出とは前方後円墳のくびれ部に存在する張り出し部のことです。この張り出しは大型前方後円墳によく見られる特徴で、形状は様々ですが、四角形もしくは三角形が一般的な形状となります。この東側造出が検出される以前に既に西側でも同様の造出が検出されています。西側の造出の形状は三角形でしたが、東側の造出も同様に三角形の形状でした。本来なら地形図上でも確認出来るはずなのですが、過去に上部を削り取ってしまったため下の僅かな部分が残ったのみで、残った部分も池の水で水没していました。
規模は東辺24m、南辺9mで、西辺16m、南辺6mの西側造出と比べて1.5倍の大きさを誇ります。通常、前方後円墳は左右対称の形状なのですが、このように若干非対称の場合もあります。
ところで、島の山古墳の周濠は過去は池として利用はされておらず、水田でした。そのころの名残として、水田用の水を確保するために造られた池の跡が確認されています。周辺地域の渇水対策として明治20年頃に池に変えるために水を貯め、現在も農業用水として利用されています。このようにもともとは水は無かったのに、のちに水を貯めるために用途を池に改めた古墳の周濠の例は数多くあります。

平成30年12月 川西町教育委員会

 

ズームしましたが、造り出しの感じは掴めず。

 

周濠の周りを進めるようになっています。

空は明るく写っていますが、雨は止んでいません。

 

来た道を振り返って。奥が前方部。

 

後円部先端側。ここにも解説が2枚。

 

1つは周濠部の縦断調査。

島の山古墳周濠部縦断調査について
古墳の主軸北端から周濠部の北端まで設けた調査区で、周濠部の調査区としては唯一周濠を縦断して調査した調査区となります。
この調査区での成果は、2個体のみではありあしたが元位置を留めたハニワが検出されたことで、後円部のハニワ列のラインが書きやすくなったということが挙げられます。次には第一段の斜面において葺石とみられる石積みの跡が検出された点です。削平は受けていたものの、このことは古墳の復元案作成に大いに役に立ちました。
反対に期待した成果が得られなかったのは、周濠の底から遺物がほとんど出土しなかった点です。この調査区に限らず、周濠に設定した調査区から出土する遺物の量は非常に少ないです。これは周濠の北端においても同様でした。通常は一番低い位置にある池底から遺物が出土することが最も多く、その中でも墳丘に近い側と堤に相当する場所(今あなたが立っている場所)側の周濠底に遺物が多数出土する可能性が高いのですが、その様になっていません。ということは、周濠は1回もしくは複数回削平したことがあるといえます。
実は島の山古墳の周濠部は明治20年頃までは水田として利用されてきました。周濠部の調査において水田として利用された面が検出されることが期待されましたが、そのような面は確認できませんでした。ということは、水田から池に用途を変更する際に水田面を削平したと考えられます。そのような記録は残ってはいませんが、水量を確保するために削平した可能性は否めません。

令和3年(2021)2月 川西町教育委員会

 

もう1つは、周濠の利用のされ方について。

「周濠(しゅうごう)」の利用のされ方の変遷
古墳の周囲にある窪地のことを一般に「周濠」と呼びますが、「周濠」という呼び方には水が張ってあるという意味合いがあります。現在の古墳の周濠のあり方を見ると、多くの古墳の周濠には水が張ってあり、周濠の言葉に違和感はないと思います。しかしながら、実はここに限らず、古墳の周濠は元々水を溜めるために造ったものでは無かったというのが通説です。
現にこの島の山古墳も水が入れられる前は水田として利用されていました。ところが明治16年(1883)、明治19年(1886)と続けざまに干ばつに見舞われます。それを受けて明治20年頃に島の山墳丘周辺の窪地で営まれていた水田を池と利用するようになり、現在に至ります。
それを裏付けるように島の山古墳の周濠内には「東池田」「西池田」の字名が残っています。また現在周濠部が水田として利用されている川合大塚山古墳の周濠部も同様に「池田」という字名が残っています。また東側造出の発掘調査において、水田が営まれた時代のものと考えられる池の跡が検出されました。また墳丘には井戸の跡も見つかっています。
では、なぜ古墳の周囲には周濠があるのでしょうか。まず、古墳は基本的にお墓であるので、周囲と空間を区切る意味があるでしょう。しかしながら、もっと現実的な理由としては掘った土を墳丘に利用するためということが挙げられます。別の場所から土をもってくるより現地で調達できるのですから、その方が簡単というわけです。もう一つの理由としては周囲を掘ることによって残った場所(この場合墳丘部)が乾燥化することが挙げられます。このことによって、墳丘での作業が格段に用意になります。
発掘調査現場を見る機会がありましたら、調査区の端を見てみてください。ほとんどの調査区で溝が掘られています。これは溝に水を流すことで、調査区内を乾燥化して調査を行いやすくするために掘られています。
令和3年(2021)2月 川西町教育委員会

 

周濠について、多くを学べる機会になりました。

 

後円部のカーブを西へ回ります。墳丘西側面の周濠。

 

少し進んでからパノラマで。左が後円部、右奥へ前方部。

 

西側の周濠沿いには比売久波(ひめくわ)神社。

 

一応、写した神社の解説でした。

今になって読むと、島の山古墳から持ち出された天井石が3個、拝殿と本殿との間の踏み石として置かれているとあるではないですか…
そして、先ほど訪ねた川西町ふれあいセンターの前庭にも1つ、と。

 

そうとは知らずに拝殿に参拝。

 

拝殿脇の解説。

 

鮮やかな朱塗り、美しい屋根のカーブの本殿は写しました。

 

その踏み石(島の山古墳の天井石)の写真は、こちらのサイトで見られます。

比売久波神社 | 奈良県歴史文化資源データベース | 奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」

 

天井石のことはこちらの解説にも書かれていますね。

 

現地の字名の「唐院(とういん)」の言われについての興味深い解説も。

大字の唐院の概要
唐院は、島の山古墳の築造でもわかるように、cj法内でも一番早く開拓され、集落としても古いところである。唐院は、道陰の庄を音読みしたものであるとも言い、また陶工 加藤藤四郎に因む陶院に由来すいるとも言われている。
また、唐の国より渡来してきた人々によって、土着したことから唐院と呼ばれるようになったのではないかという様々な説が伝わっている。
唐院集落の東方には比売久波(ひめくわ)神社がある。祭神は比売御魂神、天八千千姫。社名は、蚕桑(ひめくわ)を意味し、桑葉を神体としたと伝え、大字結崎の糸井神社と関連する神社とも考えられる。一間社春日造の現本殿(県文化財)は、春日大社の旧社殿で、江戸初期のものと推定されている。

 

そして、島の山古墳のついての基本情報にやっと到達。

国史跡 島の山古墳
全長200m、墳形:前方後円墳
後円部径113m・同高17.4m
前方部幅約103m、同高さ11m
周濠長265m、同幅175m
築造時期:4世紀末~5世紀初
島の山古墳は大和盆地中央部に築造された巨大古墳で、発掘調査で前方部頂に粘土槨を検出し、棺外から約2500の玉類の他に、緑色凝灰岩製腕輪(車輪石80、鍬形石21、石釧32)等が棺内から碧玉製合子、鏡、管玉、丸玉、首飾り等が出土しました。墳丘の調査では、円筒埴輪列が出土し、三段築成が確認できた他に形象埴輪(家、靫、盾、蓋)等が出土し、くびれ部東西から造り出しの跡を検出しました。
川西町教育委員会

 

そのあたりから振り返った北西方向。左は比売久波神社。

 

道路のフェンスには、発掘調査の解説板がまだまだ続きました。

島の山古墳西造出の発掘調査
島の山古墳において発掘調査が行われる以前では、島の山古墳には造出が存在するとは認識されていませんでした。しかしながら調査を進めるにつれ、造出の存在が想定され始め、平成18年(2006)に行われた調査で造出がその姿を現しました。
平成18年(2006)の調査で調査区のほぼ中央において古墳西側の造出を検出しました。この造出の平面形は三角形で、また周濠底と造出の上面との高低差は50㎝ほどしかない上に同上面には後世に掘られた素掘小溝が検出している点から、この造出の上面は大きく削られていることがわかります。濠はもとは水田だったことからおそらく耕作面積を大きくするため、もしくは地形を単純化するために削ってしまったものと思われます。造出の大きさは西辺約16m、南辺約6mです。地山を削ることで成形しています。造出には葺石は残っていませんでしたが、すぐ北で後円部第一段に相当する葺石が検出されており、加えて西辺・南辺とも輪郭に大きな乱れがないことから、三角形の平面形は本来の形状をとどめている可能性が高いと言えます。
他にも造出に貼りつくような形で竹製の籠が4個体分検出されました。今まで土製のものは他の古墳で知られてはいましたが、この古墳のように実物の籠が出土するケースは非常に珍しいものです。用途としては祭祀を行う際にお供え物を入れる為に置いたものであるという想定がされていますが、はっきりしたことは分かっていません。
平成30年(2018)3月 川西町教育委員会

 

島の山古墳前方部頂の発掘調査
通常前方後円墳の埋葬施設はまず後円部の頂上に造ります。ここはほぼ例外なく造られています。次に前方部の頂上(以下、前方部頂)にも造られる場合があります。これは必ず造られるものではありませんが、島の山古墳では平成8年に前方部頂から粘土槨と呼ばれる埋葬施設が発見され、多数の遺物が出土しました。このことについてはこの説明板の南にある別の説明板をご覧ください。
この調査は粘土槨の調査の次の年度の調査となります。下図で明示した範囲です。そこで調査区を設定して掘削を行ったところ、鉄製品や石製模造品が出土しました。これらは古墳の副葬品としての性格が強いものなので、この場所に新たな埋葬施設が存在する可能性が高まりました。
これを受けてこの2年後の調査で範囲を広げて調査を行いました。ここでは木棺の陥没痕と思われる土の変化が見て取れました。ただ、これを受けて調査範囲をさらに広げてみたのですが、埋葬施設が存在すると判断するには難しい状況でした。
そのため、埋葬施設が存在する可能性は非常に高いのですが、それがどのくらいの範囲で存在するのかまでは突き止めることができませんでした。ちなみに他にも造出等にも埋葬施設が造られる場合もありますが、これについては島の山古墳では未確認です。
令和2年(2020)2月 川西町教育委員会


このたりの周堤は、比売久波神社の参道になっています。

 

一の鳥居の前に、島の山古墳の解説がもう一つありました。

ひとつの古墳についての現地説明板の詳しさは、全国一になるのでは。

 

島の山古墳埋葬施設の発掘調査
島の山古墳は全長200mの大型前方後円墳ですが、一般的に埋葬施設がある後円部の他に前方部でも埋葬施設が確認されています。平成8年(1996)調査で前方部頂において発掘された粘土槨がそれにあたります。粘土槨とは埋葬施設の中でも竪穴式石室の石室を省き簡素化したもので、木棺を粘土で覆う構造となっています。
墓壙の規模は東西10.5m、南北3.4m、深さ0.5mで、粘土槨は全長8.5m、幅は東側が約2.0m、西側で約1.7m、高さ約40㎝です。納められていた木棺はコウヤマキ製の割竹形木棺です。一部残存していたため判明しました。通常は木棺を粘土で覆いますが、ここでは粘土を2回に分けて覆っており、1回目と2回目の間に緑色凝灰岩製の腕輪形石製品を貼り付けていました。その際に出土した遺物は車輪石80点、鍬形石21点、石釧32点の計133点、鉄剣1点、鉄製小刀5点です。
木棺の痕跡は、全長7.45m、幅東側86㎝、西側65㎝で、木棺の蓋および身の内側には水銀朱が塗られていましたが、内側全てに塗られていたのではなく、中央からやや東に寄った場所で塗られていました。
この木棺の中で被葬者の遺体は残っていませんでしたが、遺物の出土状況を考え合わせると、遺体は朱が塗られていた箇所に存在していたと考えられます。加えて東側の粘土槨幅が西側よりやや大きいことから見て頭の位置は東側と考えるのが妥当です。
遺物としては、頭部と考えられる位置よりやや南側に残存した木棺上に鏡3面、棺中央とその南北には碧玉製合子3点、太い管玉状の緑色凝灰岩製石製品が5点です。これら鏡、合子、管玉状石製品は頭部を囲むように配置されていたことがうかがえます。
中央には3連からなる首飾りが存在し、その1連には碧玉製の管玉が26点使用されています。他の2連は非常に細長い緑色凝灰岩製の管玉で2連28点が使用されていました。これら3連の首飾りは、最下部の親玉の箇所で1連になりますが、その親玉は濃い緑色の碧玉製の珍しい形でした。
首飾りの他に手玉が、ちょうど左右の手首に相当する位置から出土しています。その他の出土品としては鉄製刀子1点と竪櫛1点が出土しています。
平成30年(2018)3月 川西町教育委員会

 

午前中に富雄丸山古墳で、生の「コウヤマキ製の割竹形木棺(銅鏡3枚が置かれている)」を見てきたので、状況をリアルに感じました。

 

”橿考研”のサイトにも詳しい解説が。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館[大和の遺跡/古墳時代]

上記には、前方部墳頂の粘土槨は副葬品に武器がほとんど見られない点から,この主体部の被葬者は女性である可能性も指摘されていることや、後円部と前方部の中間に埋葬施設がもう1基存在すること、また、築造年代が4世紀末葉で古墳時代前期から中期への過渡期に位置づけられる代表的な大型前方後円墳であり、奈良盆地東南部のオオヤマト古墳群の首長系譜に連なるとみる見解と、葛城(かずらき)地域の首長系譜に連なるとみる見解とがあることなど、興味深い内容が記載されています。

 

前方部先端側は堤側から周溝上に民家が張り出す風情。

 

左が前方部先端。

 

民家の後ろの道路を進むと、周濠側に東口地蔵尊。

 

前方部右裾側から振り返った周濠。

 

そこから右の周溝上にも家が。

 

グーグルアースで全体を。

 

直前に、周濠に水を湛えた同規模の墳丘を持つ宝来山古墳を訪ねたので、記憶が重なりがちになりました。

2024年3月中旬訪問