墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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王塚古墳 福岡県嘉穂郡桂川町寿命

前回の沖出古墳から西北西に5.5㎞、遠賀川支流の穂波川と大分川の合流点の右岸に、あの王塚古墳が立地しています。

 

古墳公園として整備され、王塚装飾古墳館には実物大の素晴らしいレプリカが展示されています(それは次回で)

案内図(下が北)には「COMMUNICATION DIALOGUE IMAGINATION MUSEUM」と記されていました。

 

公園広場から階段を上がった先に墳丘が。

 

後円部裾に石室入口がありますが、公開は4月・10月に各2日間のみ。令和6年度春の公開予定日は、4月20・21日の9:30~16:00とのこと。

王塚装飾古墳館|王塚古墳特別公開|

 

入口脇に石室の解説。

特別史跡 王塚古墳の石室と壁画
遺体を納めた横穴式の石室は、主軸線を後円部の中心に正しく向けており、くびれ部に近い北西側を入口としています。
前・後の二室に分かれた石室は、全長6.5m、後室(玄室)の長さは約4m、幅約3m、高さ約3.5mと大形で、石枕の数から少なくとも四体が安置されたようです。
この石室の特徴は、奥壁に石棚を突き出させていることや後室への入口上に小窓を開けていること、また二人用の棺床をもつ肥後系の石屋形を設置し、さらに、その前面に一対の燈明台石を立てるなど、他に類がない極めて複雑な構造をとる点にあります。
なお、天井石をはじめとする石室の大部分には、地元産の花崗岩が使われていますが、寝台以外の石屋形や燈明台石・石枕は阿蘇の溶岩(八女地方産か)製で、当時の各地域間における活発な交流を物語っています。
有名な壁画の特色は、壁のほぼ全面にわたって、わが国では最多の五色(赤・黄・緑・黒・白)を用いて各種の図像を華麗に描く点にあり、その豪華さは他に例を見ないものです。
騎馬像や盾・矢筒(靭)・刀んどは、死者の世界の静けさを守るために並べ置かれたものでしょう。蕨手文や三角文がいっぱいに描かれて目立ちますが、大形の同心円文は意外に少なく、県南の筑後地方の壁画との違いをよく表しています。
なお、双脚輪状文は、他に弘化谷(福岡)、釜尾・横山(熊本)の三古墳しか描かれていない極めて珍しい文様ですが、残念ながらその意味はわかっていません。
王塚古墳の壁画では、わが国の装飾古墳の頂点を極めた代表例であり、この地域での大豪族である”穂波の君”の墓とみてよいでしょう。
桂川町教育委員会

 

国内の装飾古墳では最高峰でしょう。

 

最初の入口の隙間から。


墳丘に上がる園路が整備されています。鞍部に上がって後円部を。


向かって右側の斜面。

 

振り返った前方部右裾側。

 

墳丘の右(南東)側面に降りて、前方部右裾側から。

 

墳丘の解説がありました。

特別史跡 王塚古墳
昭和12年(1937)6月15日史蹟指定
昭和27年(1952)3月29日特別史跡指定
昭和52年(1977)7月2日追加指定
所在地:嘉穂郡桂川町大字寿命坂本
時代:6世紀(古墳時代後期)
王塚古墳は、穂波川の東岸、海抜34m前後の台地上に築かれた前方後円墳で、遠賀川流域では最大の規模を誇り、わが国を代表する装飾古墳として著名です。
昭和9年(1934)、鉱害復旧のための土取り工事中に石室が発見され、内部からは装身具(鏡・玉・鈴など)、武器(刀・鉾・鏃など)、武具(鎧)、馬具(轡・鞍など)、土器(土師器・須恵器)などが出土しました。
墳丘は、黄色土と黒色土とを交互に盛り上げて二段に造られており、埴輪(円筒・蓋:きぬがさ)をめぐらし、表面には土砂が流れないように石を葺いています。また、盛土の中からは、儀式に使ったとみてよい土器(土師器・須恵器)が出土しました。
前方部は土取り工事によって大部分が削り取られ、石室の保護のために昭和42年(1967)から見学禁止となりました。その後、昭和62年度(1987)からはじまった保存整備事業により、石室保存施設の建設と前方部を除く墳丘の復原などの工事が行われました。
その結果、20数年ぶりに壁画の公開が実現しました。
発掘調査の結果、王塚古墳の規模は、
全長約86m 後円部高約8.5m 後円部径約56m 前方部幅約60mと復原されています。
周濠と前方部については、完全には復原できていませんが、左の復原図によって、築造当時の壮大な墳丘を思い浮かべてください。
桂川町教育委員会

 

墳丘復原図。右上が北。

 

後円部裾から振り返って。

 

後円部裾をぐるっと回って、墳丘の左(北西)側面。

 

最初の階段を戻り、王塚装飾古墳館へ向かいます。

2023年9月上旬訪問