墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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安満山A1号墳 大阪府高槻市安満御所の町

安満宮山古墳へ上がる途中の道路脇に安満山A1号墳の説明板が立っていたので寄りましす。(ちなみに東にピンが立っているB2号墳は見逃してしまいました)

 

園路沿いに立っていたA1号墳の説明板。

安満山A1号墳
安満山の南斜面には、小規模な古墳が約50基分布しています。公園墓地の造成や拡張にともなって、これまでに11基の発掘調査がおこなわれました。その結果、横穴式石室をそなえた6世紀後半から7世紀の古墳が多くみられる一方、4世紀代にさかのぼる古墳の存在も明らかになっています。
ここに保存しているA1号墳は、直径約12mの円墳で、上部はすでに失われていました。石室は南向きににつくられ、全長は5.1mです。河原石が敷かれた床面には、多量の須恵器や2対の金環などの副葬品がのこされていました。副葬品の数や出土状況から、ここには2人が葬られていたと考えられます。
高槻市教育委員会

 

その後ろの斜面に降ります。



植え込みに紛れて露出石材が。

 

開口部側から。

 

落ちている天井石の背後に玄室。

 

奥壁の角側から。

 

開口部から先の景色。

 

こちらは後ろの斜面。

 

坂を降りて墓地の出口のあたりで、行きに見逃していた説明板。

 

こちらは安満宮山古墳の解説。

安満宮山古墳
安満山は、古来から山麓一帯に暮らす人たちの聖なる地とされてきました。
この山の中腹には、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の皇帝から贈られた「銅鏡百枚」の一部とみられる鏡んどが出土した3世紀後半の安満宮山古墳をはじめ、4世紀後半から7世紀にかけての古墳も40基余り確認され、安満宮山古墳群とよばれています。
山麓には安満の鎮守・磐手杜神社が鎮座し、三島地方で最初に米作りが行われた安満遺跡をはじめ、紅茸山遺跡、古曽部・芝谷遺跡などの集落が展開していました。安満宮山古墳からは、これらの遺跡や淀川を見とおすことができ、肥沃な三島平野をいち早く支配し、淀川を利用した古代交通に関わった人物が葬られたと考えられています。
安満宮山古墳の出土品は日本の古代史を解明するうえできわめて重要であり、平成12年6月に国の重要文化財に指定されました。また、古墳は高槻が誇る郷土の歴史遺産として復元され、自由に見学できるようになっています。(公園墓地内)
高槻市教育委員会

 

周辺にはB1号墳やC1号墳も残っているようです。

 

隣には安満山古墳群の解説。安満宮山古墳が発見される以前から、古墳時代後期の群集墳の存在がわかっていたのですね。

安満山(あまやま)古墳群
安満山古墳群は、6世紀後半から7世紀にかけて築造された古墳群で、市内では塚原・塚脇に次ぐ大規模な群集墳である。
昭和44年(1969)、公園墓地の造成に先立って一帯の分布調査を実施し、横穴式石室をもつ40数基の円墳の所在が確認された。大部分は破損埋没しているが、なかには天井石が残り、墳丘の旧状をよくとどめたものもあり、5基の古墳について調査が行われた。
そのうちの1つ、A2号墳は直径約14m、被葬者は4体とみられ、提瓶や高杯、金環、ガラス玉など多数の遺物を出土している。この他の古墳からも、土器や馬具片、紡錘車などが出土しており、ここより約1㎞上方の安満山中腹部にはA1号墳が保存されている。
当古墳の被葬者は、桧尾川(ひおがわ)流域にあった集落の有力者とみられ、対岸には5世紀後半から6世紀にかけて築造された、紅茸山古墳群がある。
また安満山の麓の平野部には、三島地方で最初に米作りが行われた安満遺跡(弥生時代)があり、木製農具をはじめ、多数の土器や石器、貴重な木棺などが出土している。
平成元年8月 高槻市教育委員会

 

こんなに古墳だらけであったとは…