日野の古墳を訪ねた際に立ち寄ったスポットをいくつか。
坂西横穴墓群から谷ノ上横穴墓群へ向かう途中に通った日野市役所・日野市民会館。
上記の左の市民会館は「ひの煉瓦ホール」の愛称。壁面のカーブと煉瓦タイルが親しみやすい印象。
吹き抜けのエントランス。大ホールは1000人超を収容するそう。
大きな壁画もよかったです。川は多摩川か浅川か。
市役所前の日野中央公園。
落ち葉が沢山。
そこから徒歩7分の、新選組のふるさと歴史館。日野駅からだと徒歩15分程。
新選組の土方歳三や井上源三郎が生まれた日野の地で、新選組・幕末維新・甲州道中日野宿などに関する展示・調査・研究を行っているとのこと。入館料200円、日野本陣と共通券300円。
この日も、新選組のファンと思われる方々が何組も見学されていました。
そこからは台地を降りて日野本陣へ。
階段の背後は中央公園へ続く桜並木。春は見事でしょう。
台地下から。比高差20mほど。
そこを北へ下りると小さな神社が。
「神明社記念誌」には、壇ノ浦で敗れた谷氏がここを拓いたという伝説から始まる詳細な説明が。
こちらのサイトによれば、市役所などがある「神明」の地名はこの神社に由来するとのこと。
中央高速の下まで降りて振り返って。
高架下の金網には、昔の風景写真。
高架下の公園。
高架の北側の暗渠。
その先には開渠。
扇形の土地には「日野市生活保護保健センター」
堂々とした建物はレンガ色。
その先の甲州街道を左折すると、左手に日野宿本陣がありました。
日野市指定有形文化財 日野宿本陣
日野宿本陣は、江戸時代末期に日野宿名主を勤めていた下佐藤家の住宅として建てられたものである。下佐藤家は正保年間(1644~48)頃に名主に取り立てられ、元々は名主であった隣の上佐藤家と共に交代で名主を勤めてきたといわれる。また正徳6年(1716)に上佐藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣と定められていたが、幕末には下佐藤家も本陣を称している。現在の建物は嘉永2年(1849)正月の火事で焼失した後再建されたもので、文久3年(1863)4月には上棟し、元治元年(1864)末に完成したものである。
日野宿本陣は瓦葺の建ちの高い大屋根と入母屋玄関をもち、本陣建築として意匠に優れている。建物の保存状態も良好であり、甲州道中のみならず都内に遺る唯一の本陣建築として、歴史的、建築史的価値が非常に高い。
日野市教育委員会
東京都の説明板だと脇本陣。解釈の違いのようですね。
東京都指定史跡
日野宿脇本陣跡
所在地:日野市日野本町2-15-9
指定:平成22年3月23日
日野宿は、甲州道中45宿のうち江戸から数えて10番目の宿場です。宿場には、日野本郷の名主と日野宿問屋役人を兼帯し世襲する、2軒の佐藤家の屋敷がありました。正徳6年(1716)以降、西側の佐藤隼人家(通称「上佐藤」)は本陣を、東側の佐藤彦右衛門家(通称「下佐藤」)は脇本陣を務めました。本陣は、公家・大名・旗本や幕府役人専用の宿所であり、脇本陣は本陣の補助的役割をもっていました。なお、この脇本陣は19世紀初頭以降、本陣を同様の機能を担っています。
本陣は建坪117坪、脇本陣は建坪112坪であったといい、甲州道中では本陣・脇本陣などの2軒ともに100坪を超える例は犬目宿
(山梨県)と日野宿だけであったとされます。
嘉永2年(1849)の大火により本陣・脇本陣等は焼失し、現在の脇本陣の建物は元治元年(1864)に完成しました。北面中央に式台玄関を備え、屋根は瓦葺であり、一般的な名主屋敷を異なり、脇本陣としての格式を備えた建物です。
また、本屋敷は新選組とも深い関わりがあり、幕末の歴史の舞台ともなりました。
東京都内には江戸時代に五街道を中心に10余りの宿場が設置されていましたが、敷地と屋敷が現存しているのはこの脇本陣跡のみです。
令和4年3月建設 東京都教育委員会
大きな建物、立派な式台。
妻側の破風が格式を演出するのですね。
見事な梅も。
土間の向こうは高い段差。
茶の間から見下ろす土間。正面が大黒柱ですね。
現存するこの建物には、近藤勇や土方歳三も訪ねているそうです。
庭の様子。
本陣と、街道を隔てた「日野宿交流館」へ寄ると、2階に日野宿などの展示室が。
日野煉瓦の解説が興味深かったです。
現在の中央線の前身である甲武鉄道が敷かれる際には日野煉瓦工場が新設され(明治22年廃業)、その煉瓦は今でも多摩川鉄橋橋脚に使われているとのこと。
煉瓦を使った公共建築が多いのも、そのような歴史が影響しているのでしょうね。
帰路、日野駅のホームから。右下の古民家風屋根が駅舎です。