津山から岡山へ向かう途中で、月の輪古墳を訪ねました。
吉井川沿いの県道26号を南に下り、吉野川との合流点北側にある飯岡(ゆうか)地区から舗装された林道を上がります。
今回の墳行でお世話になった、はにおさんの「岡山100名墳」で「墳丘からの見晴らしは抜群」とあったのでチェックしておりました。
郁文堂書店 庭瀬店 岡山県岡山市北区平野 - 墳丘からの眺め
グーグルマップに導かれて行くと、月の輪古墳の説明板と案内表示、林道起点の標識が。
文字がかすれていましたが、古墳のそばに同じ説明板(読み易い)がありました。
岡山県指定史跡 月の輪古墳
指定 昭和34年9月15日
月の輪古墳は海抜320mの太平山(おおひらやま)山頂に5世紀前葉に築造された大形の円墳です。墳丘は直径約60m、高さ約10m、墳頂平坦部の直径約17mで、墳丘の中腹に幅約1mの段をめぐらし、北側の裾には造り出しを設けています。墳丘斜面には、角ばった石の葺石がふかれ、墳頂の縁、段上及び裾には円筒埴輪とそれに交えて朝顔形埴輪がめぐらされていました。墳頂には角ばった石による方形区画が設けられ、そのなかに楯形、靭形、甲形、蓋形、家形などの形象埴輪が配置されていました。
墳頂下約1.50mのところに埋められていた木棺粘土部二つのうち、中央棺は長さ5.65mで、遺骸のほか首飾り、鏡、短甲、刀・剣、鉄鏃、銅鏃などの副葬品が出土しました。南側の棺は長さ3.10mで、遺骸のほか首飾り、竹製漆 ぬり櫛、鏡、刀・剣、ぬい針(鉄)、石釧などが出土しました。副葬品から中央棺の被葬者は男性、南棺は女性と推定されています。北側の造り出しからも木棺粘土郎が発見されましたが、遺骸も副葬品もありませんでした。 昭和28年(1953)8月から12月にかけて、研究者の指導のもとに地域住民、教師、生徒等の協力によって行われた発掘調査と発掘運動は「月の輪方式」と呼ばれ、学問的にも、教育上でも、住民運動の面でも、多くの成果と課題を投げかけました。
出土品は昭和59年4月10日県重要文化財に指定され柵原町飯岡の文化財収蔵庫(月の輪郷土資料館)で展示公開されています。
平成15年(2003)年3月 岡山県教育委員会 柵原町教育委員会
車で林道を進むと、獣除けの柵が。
「月の輪」古墳という名前に気になるところがあり、怯みましたが車だったので開閉して先へ。
あまり車が入った形跡がなかったですが倒木などは無く、問題なく墳丘のそばまで行けました(おそるおそるではありましたが)。下から車で7分ほど。
こちらが林道からの入口。
林道わきに停めました。
奥に「王子の古墳」の表示がありますね!
が、さらに林道脇が草深くなっており、また、月の輪古墳の墳頂にいたときに裾の草藪からズササと音がしたので、またの機会としました。
説明板は麓のものと同じ。
環境省と岡山県による説明板も。
月の輪古墳
この古墳は、5世紀初めのものと推定される直径約60mの円墳で、葺石と3段の埴輪列を持っていました。墳長の平らな中央部には方形区画があり、家、楯、甲冑等の多くの形象埴輪が置かれ、中央直下には割竹型の木棺を粘土で覆った中央棺があって老年の男性遺体に鏡、玉類の他多くの武具が副葬されていました。また、中央棺の南側に並んで置かれた棺には、成人女性の遺体と、鏡や多数の玉類等が副葬されていました。
環境省・岡山県
墳丘の麓にも説明板、と標柱。
こちらも内容は最初の説明板とほぼ同じでした(教育委員会名が美咲町に)
推定復元図には葺石と、埴輪がずらり。
熊除けベルが振りながら墳丘へ。
途中左手に造り出しがありました。
造り出しの円筒埴輪列。
こちらは葺石。拳より大きい石。
階段を上がって振り返って。
そしてこちらが墳頂です!
(墳頂に表示された棺や埴輪の位置などは次回で)
木々の間から平地も見えました。
この場所が標高320m(太平山山頂)、川面が40数mなので比高差は280m程もあります。
こちらは吉野川でしょうか。
(2023年10月上旬訪問)