墳丘からの眺め

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美作国分寺(跡)・金古神社  岡山県津山市国分寺

前回の一貫東1号墳からは、西に車で5分に美作(みまさか)国分寺(跡)

 

現在の様子。

 

詳しい説明板。

美作国分寺跡
741年、聖武天皇は仏法の加護による五穀豊穣と国家の繁栄を祈願するために「国分寺建立詔」を下し、すべての国に国分寺(金光明四天王護国之寺」及び国分尼寺(法華滅罪之寺)が造営されました。
美作国においては古くからこの付近が国分寺の跡であると推定されていたため、津山市では1977~79年に発掘調査を実施し、ここが美作国分寺跡であると確認しました。
その結果、美作国分寺は約2町四方の範囲の中央に南門・中門・金堂・講堂が南北一直線に並び、回廊が中門と金堂を結び、その外側東南に塔が位置しているという、いわゆる国分寺式といわれる最も標準的な伽藍配置を持つものと判明しました。金堂・塔跡など、主な建物の基壇(建物を建てる基礎の壇)は河原石で入念に仕上げられていました。特に塔跡は2000年に再調査を行い、犬走・雨落溝まで含めた基壇の規模が一辺24mと、全国の国分寺の中でも最大級であることが明らかになりました。
また、出土した瓦の研究から、奈良の瓦工人が国分寺から北西約5㎞に位置する美作国府を建設する際に招かれたこれらの瓦を製作したものであり、その後美作国分寺やその西約450mに位置する美作国分尼寺でもその瓦が使用されたものと考えられています。
美作国分寺は奈良時代の中頃に主要な伽藍がほぼ完成し、その後奈良時代末または平安時代初頭に中門を中心に修復が行われ、平安時代後半にも金堂・講堂が修復されました。そして平安時代末頃には廃絶したと思われます。
津山市教育委員会 2001年12月

 

今は農地ですが、ここは回廊の内部でした。

 

北側、金堂・講堂があった方向。

 

西側。

 

南には現在の国分寺。

 

国分寺の山門。

 

境内の様子。


そこここに、かつての礎石が置かれていました。

 

国分寺に向かって左(北)には、金古(かなこ)神社の参道が。


石段を登ると、また石段。

 

振り返ると、国分寺の甍の波。