墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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和田山古墳群(前編:24号墳、1号墳、2号墳) 石川県能美市和田町

能美ふるさとミュージアム(の一部)を見学した後は、”裏山”にあたる和田山古墳群へ。

 

ミュージアム裏からの急登。

 

すぐに頂上が見えてきます。

 

よく見ると、平たくなった円墳のような。

 

和田山24号墳(円墳)の標柱が立っていました。

 

そこから南西、上ってきたほうとは逆側の斜面の先には巨大な墳丘?

 

その近くに能美古墳群全体の説明板。

 

そのマップを見ると、8号墳のようですが…

 

中世の山城・和田山城の跡でした。

和田山城
忠霊塔から南は、中世の和田山城の面影がよくのこっている。この城は約22,500㎡、中級の山城であるが、古墳の墳丘を物見櫓に改造し、丘頂に虎口・土塁・犬走りなどの防禦施設をもうけ、裾まわりに曲輪や空堀をつくるなど、大規模な土木工事が行われている。本丸と二ノ丸は桝形門によって結ばれているが、本丸を二重に仕切って複郭式とするなど、戦国末期の特色をよくそなえている。
本城は室町中期に加賀一向一揆で活躍した、和田坊主が築城したと伝え、それが和田山の地名の起こりといわれる。現在の山城の形は天下統一をめざす織田信長軍団の武将柴田勝家が天正8年(1580)、家臣の安井家清に守らせたころにできたとみられる。和田山城は南加賀の重要な戦略拠点に位置し、一揆軍のたてこもる虚空蔵城や鳥越城攻撃の基地に使われたのであろう。

 

こちらの絵図では9号墳が本丸に転用されているようでした。

帰りの時間が迫っていたので山城方面へは向かわず、和田山の尾根を北へ向かいました。

まずは和田山1号墳。

実は24号墳のすぐ北側にあります。

 

1号墳の説明板。

和田山1号墳
径24m、高さ5mの円墳。6世紀前半の築造。昭和26年(1951)、能美古墳群で初めて発掘調査された古墳。粘土で覆った棺のなかから、六鈴鏡や管玉、ガラス玉などが出土し、被葬者の歯も残っていた。歯の鑑定結果から、10代半ば頃に亡くなったことがわかった。
六鈴鏡は、縁に6個の鈴をつけた銅鏡で、関東地方に出土例が多い。鈴鏡を腰にさげた女性埴輪があることから、高貴な女性あるいは巫女がもつ道具と考えられている。北陸地方では唯一の出土品で、現在は京都国立博物館に所蔵されている。

 

ロープで囲まれた墳丘。

 

北側から見る1号墳。

 

そのすぐ背面(北)には弥生時代の高床式倉庫跡が。

高床式倉庫跡
1号墳と2号墳の間の平坦面で4本の柱穴が2列に並んで検出された。柱の根元に横木をかませて補強した高床式倉庫の跡である。周辺から出土した土器からみて弥生時代後期のものと考えられる。古墳時代以前に丘陵上に集落が営まれていたことがわかっているが。その建物の一部をなした。
水を汲むにも、米を運ぶにも不便な丘陵になぜ集落を営んだのだろうか。「倭国大乱」といわれる当時、見晴らしのよいこと、戦禍から収穫をまもることが重要だったためであろう。

 

そこを挟んで和田山2号墳。

 

2号墳の説明板。珍しい鈴付銅釧や、馬具が出ています。

和田山2号墳
径20m、高さ3.7mの円墳。1号墳と同時に調査され、中規模古墳ながら、豊富な副葬品が出土している。
神獣鏡は、神と獣を組み合わせて表現した径12㎝の倭製鏡。鈴付銅釧は全国でも数例しか知られていない。ほかに、鋲で留められた短甲が副葬されていた。なかには馬具が納められていた。甲冑をまとい、馬に乗る武人の姿を彷彿とさせる。昭和54年(1979)の調査で、墳丘をめぐる周溝から6世紀前半とみられる須恵器が出土した。葬送のまつりに用いたものであろう。