墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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能美ふるさとミュージアム 石川県能美市寺井町

前回のつづきの、能美ふるさとミュージアム(能美市立博物館)

 

特別展の「にっぽんの古墳クッション展」を楽しませていただいた後、常設展示室へ。(幟の後ろ側)

一般300円で、月曜日と第三火曜日が旧館です。

 

デジタル絵本のような解説コーナーを経て。

 

予想をはるかに上回る素敵な博物館でした。

 

能美市のマップ。北に手取川が流れ、西側を辰口丘陵が占めていますが、遺跡の密度が濃いい!

 

古墳時代のコーナーは、4体の甲冑に迎えられます。

 

下開発茶臼山9号墳


和田山5号墳A槨

 

和田山5号墳B槨

 

西山3号墳


和田山5号墳A槨の甲冑の全体復元。

 

北陸の甲冑出土古墳の解説

北陸には30基ほどの甲冑出土古墳が確認されています。このうち能美地域では、8基ほどの古墳が集中しており、5世紀代を通じて継続的に甲冑が副葬される特異な地域です。甲冑は戦いを象徴する武具であり、当時の能美地域はヤマト王権から軍事的な重要地域として甲冑軍団の編成が行われたのかもしれません。

 

能美古墳群の立体模型とその特徴。

・5つの独立墳丘にまたがる立地
・多様な墳丘と埋葬施設
・豊富な副葬品
・継続的な築造
・有力墳の存在


秋常山古墳群の立体模型。

 

触れる葺石も。

 

秋常山2号墳からの出土品。

 

北陸の他の大きな古墳との比較。

秋常山1号墳の大きさは、石川県最大、北陸最大級、日本海側で4番目、全国で83番目に位置付けられます。まさに「加賀の大王」とも呼べる1号墳首長の出現背景には、加賀地方内部の事情だけではなく、当時の東アジア情勢や、ヤマト王権の政治的動向も密接に絡んでいたと考えられます。今後、副葬品などがわかると、被葬者の姿をより具体的に知ることができるでしょう。
北陸における墳長100m以上の古墳
1,柳田布尾山古墳(越中・107.5m・4世紀後半)
2.秋常山1号墳(可が・140m・4世紀末)
3.六呂瀬山1号墳(越前・140m・4世紀後半)
4.手繰ヶ城山古墳(越前・129m・4世紀後半)
5.上之塚古墳(若狭・100m・5世紀後半)

 

幅広の展示ケース目一杯に並べられた鉄製品は和田山5号墳のA槨・B槨から。

和田山5号墳はだれのお墓?
和田山5号墳は、2つの埋葬施設の位置から、当初より2人を埋葬するために造られたようです。2人の埋葬施設は並んで置かれていますが、よく見るとA槨のほうが木棺が大きく、副葬品も豪華で数が多く、力のある人物であったようです。墳頂55mの前方後円墳を造り、当時の最先端の武器や武具をはじめとするおびただしい量の鉄製品をもっていることからも、当時のヤマト王権と強い結びつきをもった人物たちで、2品で能美地域を治め、加賀地域の広い範囲にまで政治的な影響力を及ぼしていたのかもしれません。また、副葬品のなかには、中国貨幣や朝鮮半島に系譜のある鉄鉾も含まれており、日本海に面した地域として東アジア世界とのつながりをもった人物だったのかもしれません。

 

こちらは和田山23号墳出土の須恵器。


それらが出土した時の状況も展示されていました。

昭和52年(1977)8月、「Wトレンチ」と呼ばれる調査区で周溝を掘り下げていると、地表下約1.3mの深さから「須恵器」と呼ばれる土器がおびただしい量で、しかも整然と配置した状態で出土し、調査者たちを驚かせました。
須恵器は全部で50点余り出土しました。最も多い有蓋高坏は身に蓋を被せた状態で、おおよそ5個×9列の長方形状に並べられていました。有蓋高坏の上には、破片となった無蓋高坏、𤭯(はそう)、脚付壺、器台などがありました。出土状況から、、有蓋高坏を並べて祭壇をつくり、その上にさまざまな器種を置いていたようすがうかがえます。

 

文字が刻まれた須恵器(刻書須恵器)も。


ほかにも、飛鳥~平安時代、白山曼荼羅図が描かれた江戸時代、明治・大正・昭和の時代などのコーナーが続いていましたが、帰路までの残り時間の関係でここまでとしました。