墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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三角西港(前編) 熊本県宇城市三角町三角浦

三角駅からは、国道57号で宇土半島北側へ向かいます。

その途中に洋館が立つエリア(三角西港)があったので立ち寄りました。

 

駐車場に停めて洋館へ。復元された洋風旅館「浦島屋」でした。

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浦島屋
小泉八雲の紀行文「夏の日の夢」の舞台となった洋風旅館。当初の建物は日露戦争後、中国の大連に移築され、平成5年(1993)に復元されました。

 

1階室内の様子。

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素敵な階段。

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2階はぶち抜きの広間。

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魅力的なテラス。

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テラスからは天城橋が望めました。

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建物の背面側。

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真正面から。

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広場があるので中景も撮れます。

 

そこから振り向くと、明治の石積埠頭があります。

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詳しい説明板も。

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三角西港は明治20年に開港され、明治以降の近代港湾の歴史上、国費を投じて築港された港として宮城県の野蒜港、福井県の三国港と並ぶ当時の国家的事業であった。西港は当時の施設が現在も残っている唯一の港である。
特に、その歴史的価値としては、オランダの築港技術が導入されていること、港湾施設のみならず背後を含めた都市づくりが一体的に整備され、約1世紀を経過した今日においても築港当時の石積ふ頭、水路、橋等がほぼ原形のまま残されており、平成14年(2002)に国重要文化財に指定された。
また、明治35年(1902)に建築された郡役所等の各種建築物を含めて、その文化的遺産は高く評価され、その保存的価値が再確認されている。

 

埠頭に降りて。

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100年以上経ても、しっかりと残っています。

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石材は地元の宇土半島のものでしょうか。

宇土半島の東端の宇土市網津町字馬門付近で産する「阿蘇溶結凝灰岩」は、大阪の今城塚古墳の石棺石材にも使われています。

約9万年前の阿蘇山の噴火により流れ出た火砕流が堆積したもので、通常の堆積岩は灰色~黒褐色であるのに、馬門地区に堆積した岩層にはピンク色のものが含まれており「阿蘇ピンク岩」とも呼ばれるそう。

馬門石とは|宇土市公式ウェブサイト

 

もし、この埠頭の石材も馬門石であるのならと想像をめぐらすと、愛おしくなってしまう埠頭でした…

 

しかし、実際は「対岸の飛岳から切り出した安山岩」とのことでした。

世界のくまもと|世界遺産 三角西港(宇城市)

 

北西の、有明海につながる方向。

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南方向。

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ちなみにですが、この港は世界遺産でもあるということを、現地にて知りました。

世界遺産
明治日本の産業革命遺産
製鉄・製鋼、造船、石炭産業
三角西港は、世界遺産一覧表に記載された明治日本の産業革命遺産の構成資産の一つである。
19世紀半ば、西洋に門戸を閉ざしていた東洋の一国は、海防の危機感より西洋科学に挑戦をし、工業を興すことを国家の大きな目標として、西洋の産業革命の波を受容し、工業立国の土台を築いた。明治日本の産業革命遺産は、1850年代から1910年の日本の重工業(製鉄・製鋼、造船、石炭産業)における大きな変化、国家の質を変えた半世紀の産業化を証言している。

 

宇城市のサイトで、詳しい歴史がわかります。

明治20年(1887)の開港した三角西港は、背後の山を削り海を埋め立てて新たに築造された、明治期の最先端の港湾都市だったそうです。

当時の熊本県の中心港は現在の熊本港付近でしたが遠浅で良港ではなかったため、県から依頼されたオランダ人技師ムルドルの調査により、宇土半島の先端に位置する三角の地が選ばれ、港湾の設計がなされ、明治17年(1884)に熊本と三角を結ぶ道路工事の着工とともに港湾の工事が始まっています。

明治22年(1889)には国の特別輸出港に指定され、米、麦、麦粉、石炭、硫黄などが中国の上海等へ輸出されて九州の一大集散地となり、宇土郡警察署、三角簡易裁判所、宇土郡役所も開庁て、貿易、行政、司法を備えた都市として発展。

しかし、港の潮流や風が思いのほか速く、港として使いにくいという声が上がるようになり、さらに明治32年(1899)の鉄道敷設が三角東港付近で終点となり、国の重要港としての役割は東港へ移っていったとのこと。

三角西港は次第に使われなくなったものの、そのおかげで明治期の石積み埠頭を始め、当時の施設がほぼ原形のまま残ったということでした。

三角西港の歴史・文化財指定 / 宇城市

 

オランダ人技師ムルドル(ムルデル)は、ほぼ同時並行して利根運河の建設にも関わっている。明治18年(1885)に計画書提出。運河は明治23年(1890)に開通。

 

 

浦島屋の近くにあるムルドルハウス(お土産屋さん)

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龍驤館(りゅうじょうかん)

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明治天皇の即位50年を記念して、当時の宇土郡教育会が頌徳記念館として建設。

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レストラン「西港明治館」は旧三角海運倉庫。

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旧三角海運倉庫(現 三角築港記念館)
明治20年(1887)に建てられた土蔵造りの2階建てで、荷揚げ倉庫として使われました。昭和63年(1988)老朽化に伴い修復され、築港記念館として利用されました。三角西港の繁栄をしのばせる貴重な建造物です。