墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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笠置峠古墳(往路) 愛媛県西予市宇和町岩木

伊予墳行の2日目は、西予市の笠置峠(かさぎとうげ)古墳へ向かいました。松山市街から車で70分程。

 

5時半ぐらいに宿を出て、沈みゆく月を見ながら高速を西へ。

予讃線の伊予石城(いよいわき)駅の近くにマンモスがいて、思わず車を停めました。

 

3人親子でしょうか。あとで聞いたら毎回藁を葺き直すそうです(骨組みは同じ)

 

西方向の山並み。そのすぐ向こうは宇和海です。

 

ぎりぎり見えていた月(中央:月齢18)


県道260号から、予讃線の三両編成を。盆地だからか鉄路を刻む音がよく響いていました。

 

笠置峠への登り口に迷ってウロウロしましたが、地中池の西側の道に辿り着きました。

 

水面のもやがきれいでした。

 

こちらの案内表示で左折。

 

ここからが峠へのダート道。

 

徒歩路と林道があります。いきなり道幅が狭くなっていて、借りた車は軽では無かったので、池の近くに停めさせていただいて歩いて登りました。

赤い方のルートが徒歩路、旧笠置街道。

 

ここで林道との分かれます。


時代劇で使えそうな雰囲気。

 

路の脇の、遍路墓(無縁仏)に手を合わせ。

 

山賊が出そうな…


その先で林道と合流し、峠の茶屋跡を通り過ぎました。

 

古道のしおりも。

古道のしおり
笠置峠の山頂にある笠置峠古墳(標高412m)は、1997年から2004年にかけて行われた発掘調査で、4世紀前後に築造された西南四国最古の前方後円墳(全長45m)と確認され、地元の人々から注目を浴びました。古墳の石室にはいわゆる青石(八幡浜産か)の蓋石が設置されていたと考えられており、峠越えの道は「古墳への道」として拓かれたとしても不思議ではありません。
それから長い歴史を庶民の生活の道として、あるいは権力者たちの往来の道として今日まであり続けたのです。特に国事多難な幕末期には、オランダおいねこと楠本イネや二宮敬作、そして高野長英・村田蔵六(大村益次郎)たちも幾度となくこの道を通ったことでしょう。
その昔、峠には追いはぎや物の怪が出ると恐れられていました。釜倉の和気吉蔵氏が旅の安全を願って寛政6年(1794)にお地蔵さまと祀りました。このお地蔵さまの前で毎年、村中の人が集まり奉納相撲が行われ、とても賑やかだったそうです。お地蔵さまの近くには大きな松があり「笠置の松」といって地元の人々に親しまれ「双岩八景」のひとつに数えられ、日本三大薬師のひとつ山田薬師の頃には二軒の茶店があり、お茶のほか駄菓子や雑貨などが売られていました。牛馬を連れて登る里人や行商人、旅人やお遍路さんなど、特に険しく特に親しまれたこの笠置峠を多くの人々が行き交いました。
この一千年をはるかに超える古道に、じっと耳を澄まし、遠い古からの先人たちが築き上げてきた文化と歴史の足音をきこうではありませんか。
八幡浜市・笠置峠古道を守る会

 

その先でまた徒歩路と林道が分かれました。

ちなみに林道は砂利が敷かれて整備されており普通車なら問題なく(南側からなら)上がれる感じでした。左の道の先に2,3台停められるスペースもあります。

 

上記の右が、笠置峠古墳への直登道。

 

階段の上に小屋根が!

ここまで、池から徒歩でも30分弱でした。

次回につづく。