墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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牽牛子塚古墳・越塚御門古墳 奈良県高市郡明日香村越

2023年3月11日、飛鳥ハーフマラソンの前日に巡った古墳の最後は牽牛子塚(けんごしづか)古墳でした。

 

墳丘表面に精巧に加工された切石が隙間なく貼られており、遠くからも目立ちます。

 

7年前に訪ねたときはまだ復元整備前で墳丘はシートに覆われ、そこに至るルートには心細さを感じるほどでした。

 

今回の御姿は別物だったので、「再訪」とはしませんでした。

アクセスも容易になっています。墳丘が築かれた丘の下部に立派な標柱。

 

上記の右の階段を上がった先は、墳丘鑑賞地点のひとつでした。

模型もあり。手前にあるのが越塚御門古墳です。

 

説明板も。

牽牛子塚古墳の被葬者は斉明天皇(つまり合葬者は間人皇女、そして越塚御門古墳には大田皇女)との蓋然性が高いと考えられています。

国史跡 牽牛子塚古墳・越塚御門古墳
牽牛子塚古墳は7世紀後半に造られた古墳で、丘陵の頂部に位置しています。墳丘は三段築成の八角墳で、発掘調査の成果などから対辺長約22mに復元することができます。現在の墳丘は、最下段部分を築造当時の大きさに復元しています。内部には二上山産凝灰岩の巨石を刳り抜いた埋葬施設(墓室)があります。墓室は二室あり、それぞれ奥行2.08m、幅1.18~1.2m、高さ1.18m~1.2mの大きさで、鎌倉時代に盗掘に逢いましたが、七宝飾金具、玉類の副葬品の一部や夾紵棺片、人骨が出土しています。
越塚御門古墳は7世紀後半に造られた古墳で、牽牛子塚古墳の南東側に接するように築かれており、発掘調査の成果から一辺約10mの方墳に復元することができます。埋葬施設(墓室)は石英閃緑岩の巨石を刳り抜いた蓋石を床石から構成されています。墓室の長さ約2.36m、幅約0.95m、高さ約0.6mの大きさで、床面にはコ字状に幅・深さ共2㎝の排水溝があります。墓室の南側には改修時に造られた砂利敷きの長さ5.5m以上、幅約1mの墓道があります。墓室は盗掘に遭っていますが漆膜片、鉄釘などが出土しています。
牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の相並ぶ姿は、「日本書記」天智天皇6年(667)にある斉明天皇の小市岡上陵の蓋然性が高いと考えられています。
明日香村

 

解説の牽牛子塚古墳の埋葬施設部分。同じような大きさの”ベッドルーム”が2つ。


こちらが越塚御門古墳。しっかりと整備、保護されていました。

 

石槨の底石が美しいです。蓋石も一部残存。

 

越塚御門(こしつかごもん)古墳としての解説。説明文はさきほどのものと一緒。

 

そしてこちらが牽牛子塚古墳。

 

復元された”直線美”には、イージス艦を想起しました。


開口部のところは見学しやすいように設計変更(?)されているものと思われました。

 

切れ味が鋭そう。


普段は閉じている柵。ここから”ベッドルーム”が見下ろせます。

 

が、この日は特別に(ライトアップ最終日で?)開放されていて、間近で見学できました。

 

向かって左の部屋。

 

直角が目立つ床部分と、丸みを帯びた天井部分の処理が対照的です。

 

向かって右側の部屋も。

 

見事な仕上げ。

 

墳丘そばの説明板。こちらも重複するので書き起こしは省略。

 

牽牛子とは、あさがおのことでした。

国史跡 牽牛子塚古墳・越塚御門古墳
牽牛子塚とあさがお塚
牽牛子塚古墳は別名「あさがお塚」とも呼ばれ、江戸時代や明治時代の文献から墳丘が多角(八角)形をしており、「あさがお」の花びらに似ていたことから名前の由来になったと考えられます。
「万葉集」と越智岡
牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の所在する越智岡(小市岡)は高取川の左岸にあり、古く万葉歌に「越智野」が詠まれ、隣接する真弓岡や今城谷には天武天皇と持統天皇の檜隈大内陵や吉備姫王の檜隈墓など大王(天皇)家の墓地空間が広がっています。
「日本書記」と小市岡上陵
「日本書記」の天智天皇6年(667)条に斉明天皇と間人皇女を合葬した「小市岡上陵」との陵の前に「大田皇女」が葬られたことが記されています。間人皇女は斉明天皇の娘で孝徳天皇の后、そして大田皇女は斉明天皇の孫で天智天皇の娘にあたります。小市岡(越智岡)はまさに斉明天皇ゆかりの女性たちが眠っています。
明日香村

 

開口部を背にしての眺め。

 

墳丘背後から、同じ方向を。

18時になって、青いライトが灯りました。

 

まだ明るかったので、青味は一部でしたが…

 

帰路に振り返ると、朝顔の花を伏せたように見えました。

 

なぜか心に響くライトアップでした。東京タワーの灯りのような。