墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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一貴山銚子塚古墳 福岡県糸島市二丈田中

一貴山銚子塚(いきさんちょうしづか)古墳は、前回の釜塚古墳とは長野川を隔てて1㎞程南西、筑肥線の一貴山駅から徒歩5分ほどの緩い尾根上に立地。

南北を長軸、後円部を南に向けた全長103mの前方後円墳です。4世紀後半の築。

墳丘の西側に椛島家住宅という由緒ある御屋敷があります。糸島市のサイトによれば、元の当主の満生家はこの古墳を先祖の墓という意識をもち、庭の一部として管理してきたのだそう。

登録有形文化財「椛島(かばしま)家住宅」 - 糸島市

 

墳丘への入口は南側の道路沿い、椛島家の門の西にある説明板の脇にありました(電柱の左)

 

こちらが説明板。江戸時代の記録があるにもかかわらず、昭和の調査では10枚の鏡を含む多くの副葬品が埋葬当時の配列のまま出土。満生家に大事に守られてきたからでしょう。

国指定史跡 一貴山銚子塚古墳
所在地:福岡県糸島市二丈田中字大塚100番地1
築造年:4世紀後半
昭和32年 国指定
長野川流域の洪積台地上に立地する糸島地方最大の前方後円墳である。
古墳は地元では「金の銚子が埋まっている」との伝説から、銚子塚と呼ばれており、古くは江戸時代、貝原益軒の「筑前國続風土記」に「神在村の西にあり。此所に大なる塚有。塚の内方三間程あり。南の方に口あり。内は石垣なり。人入る事なし。内には人の骨多し。」と紹介されていた。また、明治期に掘削された後円部の通風溝から、石室材である板石が露出していたため、昭和20年代前半には既に古式古墳の可能性があることが日本考古学協会・古墳調査特別委員会において想定されていた。
調査は昭和25年(1950)3月に日本考古学協会と福岡県教育委員会の合同で進められ、地権者満生氏を始めとする地元有志、糸島高校生、一貴村役場関係者などの援助を受けて実施されている。
古墳の規模は、全長103m、後円部径61m、後円部高9.5m、頂部径28m、前方部幅29m、高6mを測り、主軸方向は北側となる。
墳形は前方後円形を呈し、現状では前方部2段、後円部で3段の段築が認められるが、周濠など外部施設は確認されていない。
主体部は後円部の中央部で確認された、長さ3.4m、幅1.4m、深さ0.8mを測る竪穴式石室であり、内部は組合式木棺と推定されている。
出土遺物は、石室内外より銅鏡10面、鉄製素環頭太刀3口、直刀3口、短刀1口、鉄剣6口、剣形鎗身14口、鉄製長頚鏃14個、硬玉製勾玉2個、碧玉製管玉33個など、ほぼ埋納時の位置を保って検出されている。また、石室付近の封土内より土師器二重口縁壺片も出土している。
鏡は被葬者の頭部両脇に鍍金方格規矩四神鏡、長宜子孫内行家文鏡各1面が置かれ、続いて左右に4面ずつ計8面の仿製三角縁神獣鏡が配されていた。また頭部脇の2面は後漢鏡の伝世品と考えられ、三角縁神獣鏡についてはも兵庫県勅使塚古墳、大阪府ヌクケ谷北塚古墳、佐賀県谷口古墳出土鏡と同笵鏡であることが確認されている。
築造時期は、石室構造や出土遺物から4世紀後半と考えられるが、同一水系にある釜塚古墳、東二塚古墳などとは同じ盟主系列にあたる可能性があり、古墳時代前期、大和政権と強い繋がりを持った、糸島一帯を治めていた首長の墓と考えられている。
平成16年3月 糸島市教育委員会

 

ちなみに出土した三角縁神獣鏡の中には、椿井大塚山古墳の出土鏡との同笵鏡もあるとの指摘も。(by 昭和25年調査参加の小林行雄氏  ←「九州の古墳」吉村靖徳著より)

 

草を軽くかきわけながら後円部墳頂へ。


②番の標柱が立っていました。

 

その向こうに前方部が続きますが

 

間に溝が掘られて渡れない状態でした。

 

後円部墳頂地面。

 

スマホ広角で。手前が後円部、左奥がへと前方部。

 

登ってきた南側(後円部先端側)斜面。

 

後円部から南東方向を。あとで地図を見たら、この100mほど先を筑肥線が通っていました。

 

糸島市が作成した、釜塚古墳と合わせた8分弱の動画で理解が深まりました。

一貴山銚子塚古墳・釜塚古墳のイメージ映像を公開 - 糸島市


www.youtube.com

 

当エントリで、2022年10月に訪ねた糸島~唐津~佐賀平野の古墳旅の報告完了です。

一貴山銚子塚を訪ねた後は唐津に泊まり、翌日は唐津市街の古墳を堪能。

樋の口古墳 佐賀県唐津市鏡 - 墳丘からの眺め

 

翌朝の唐津湾の眺めも神々しくて見とれました。

 

今回の墳行で、北部九州型の初期横穴式石室というものを初めて知り、実見・体験もできました。

古墳の世界の”奥が深さ”を改めて実感した旅でした。