墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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(羽生田)茶臼山古墳 栃木県下都賀郡壬生町大字羽生田字古敷

前回の笹塚古墳を見た後は西にさらに10㎞移動して、壬生町の茶臼山古墳へ。

 

この日の朝に訪ねた益子町の小宅古墳群から、わざわざ平野を西に横切って30㎞移動してきたのは、7年前の夏に撤退した茶臼山古墳へ向かうためでした。

 

グーグルマップに導かれて見覚えのある地点に。左の奥が入口です。

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今回は、道が見えていました。

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途中に立つ「文化財をたいせつに」の標柱。一瞬まさかここが?と思ってしまいました。

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200mほど進むと丘が見えてきます。

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説明板完備の国指定史跡。全長91m、周堤を含めると140mも。

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国指定史跡 茶臼山古墳
指定年月日:昭和33年6月28日
所在地:壬生町大字羽生田字古敷1478他
茶臼山古墳は丘陵の先端部に築かれた二段築成の前方後円墳です。墳丘第一段平坦面は幅広く造られ、「しもつけ型古墳」の特徴でもある「基壇」の施設をもった古墳です。墳丘の周囲には周溝と周堤が当時の姿で残っています。墳丘は第一段の全長が91mあり、週溝からの高さは最も高い前方部で約12mを測ります。周堤を含めた古墳の総全長は140mにも達します。また墳丘と周堤の斜面からは葺石の施設も確認されています。
茶臼山古墳は、明治年間に発掘調査が行われ、組み合わせ式家形埴輪の上屋根の部分が出土しています。そして本墳の東に隣接する富士山古墳から出土した家形埴輪を参考に復元すると、高さが180㎝に達する国内最大級の家形埴輪になります。なお、埋葬施設については、詳細な発掘調査が行われていないため不明ですが、出土した埴輪などから6世紀の後半に築かれた古墳と考えられています。
平成25年3月 壬生町教育委員会

 

測量図部分のアップ。堂々たる姿。

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さっそく墳丘へ。現在地は周堤上。

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いったん周溝に降りて、目の前の基壇に上がります。右奥の高いところが前方部先端。

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基壇から墳丘側面を。

 

前方部に上がって後円部方向(北北西)を。

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振り返った前方部先端方向(南南東)

 

前方部の右裾を見下ろして。左側、木々の向こうはゴルフコース。

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45ホールもある鹿沼カントリークラブの南端、黄金(こがね)コース。


前方部から墳丘の右側面を。

 

後円部墳頂へ上がります。

 

振り返った前方部方向。

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後円部墳頂に到りました。

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後円部先端方向。


後円部先端側の基壇の下へ降りて振り返って。

 

基壇と周堤との間の周溝、良好に残っています。

 

振り返った先にはゴルフカート。

 

ゴルフ場の造成前の地形はわかりませんが、墳丘は北側に見せるように築かれたのでしょうかね。南の平野からや西の今の黒川の流路からは少し離れているように感じます。

※追記~次に訪ねた富士山古墳の解説板には、富士山古墳が「茶臼山古墳とともに」「南に広がる低地面を見下ろすように築かれています」とありました。

 

後円部裾から、奥に前方部。

 

前方部右裾から、奥に後円部。


到達できた喜びで、写真多めになりました。