墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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牧野車塚古墳 大阪府枚方市小倉東町

昼神車塚古墳からは淀川を渡って枚方市の牧野車塚古墳へ。

橋のあたりで渋滞していて車で40分ほどかかりました。

 

墳丘は地域のコミュニティーセンターの「輝きプラザきらら」の西隣にあり、駐車場を利用しました。

全長107.5mと大きな前方後円墳である牧野車塚古墳は、グーグルアースでもその形がよくわかります。右が後円部、左が前方部。

 

駐車場から北西に望む墳丘の”森”。

 

古墳公園への入口です。

 

そのそばに説明板。

史跡 牧野車塚古墳
穂谷川左岸の交野台地に立地する前方後円墳です。墳丘は二段築成で全長107.5m・後円部径58m・前方部幅45mを測ります。主軸線をほぼ東西にとり、前方部を東に向けています。周囲には幅10mほどの空濠をめぐらせ、外堤は西側から南側にかけてのみ残るものの、当初は全周していました。外堤を含めた規模は北河内でも最大級で、整美で原形をよく留めていることkら、大正11年(1922)に国の史跡に指定されました。
昭和53年(1978)の後円部側外堤西側の発掘調査で、幅4~5m・深さ20~30㎝の周溝が確認され、円筒埴輪2本が出土しました。平成16年(2004)には前方部と周濠の一部の発掘調査を行い、板石を使った特異な葺石を確認しています。円筒埴輪の特徴から、4世紀後半に築造されたと考えられるようになりました。
葺石には徳島県や兵庫県んど遠方から運ばれてきた石材が用いられていることから、牧野車塚古墳の被葬者は、これら広範な地域と密接にかかわりをもち、当時の交野台地を治めた首長と考えられます。
なお、付近には「赤塚」「権現塚」「子供塚」「ショーガ塚」等の古墳を思わせる地名が知られているほか、牧野車塚古墳の北側で行った小倉東遺跡第32次発掘調査で5世紀代の方墳群などを検出したことから、牧野車塚古墳一帯は7世紀初頭頃まで継続して墳墓が営まれたことが明らかとなっています。
平成28年(2016)3月 枚方市教育委員会

 

入ってすぐで気になったモニュメント?

 

そこに、石に刻まれた説明板もあります。

史跡 牧野車塚古墳
牧野車塚古墳は大正11年に国の指定史跡となった前方後円墳で、枚方市内では禁野車塚古墳と並び屈指の規模を有している。
墳丘の長軸線は、ほぼ正しく東西線上にあり、後円部を西、前方部を東に設けている。後円部の直径や54.5m、前方部の幅は44mで周囲に一重の空濠をめぐらし、南側と西側には更に外堤を設けている。
築造年代は内部構造が明らかでないので確定することはできないが、前方部より後円部が高く、前方部がまだ充分発達しておらず外堤上に陪塚上の小墳丘を配列するなどの点から、5世紀代の築造と推定される。
昭和49年3月 文化庁 大阪府教育委員会 枚方市教育委員会

 

そこからいったん周溝へ降ります。

 

周溝の遊歩道。

 

墳丘へのルートがありました。

 

ここが前方部墳頂のようでした。奥が後円部への尾根道。


振り返った前方部先端側。

 

歩きやすい尾根道ですが、草木で墳丘の感じはつかみにくいです。

 

後円部墳頂に到着。

 

この円形が中心部でしょうか。


後円部から周溝に降りる径。その先は周堤への階段。


周堤から振り返った後円部。

 

後円部の周溝の様子。左は周堤。

 

北側の側面に回りました。

 

このあたりがくびれ部でしょう。

 

前方部側面裾あたり。


墳丘の北のタイヤ公園。

 

東側。右の建物が「輝きプラザきらら」

 

牧野車塚古墳を前方部右裾側から。

樹林が濃かったですが、冬季なら墳丘面がわかるのでしょうかね。

(2023年9月中旬訪問)