墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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宗慶大塚古墳 岐阜県本巣市宗慶

前回の上磯古墳群から4㎞東南東にピンが立つ、宗慶大塚(そうけいおおつか)古墳。

樽見鉄道の北方真桑駅から徒歩23分です。

 

駐車場完備の古墳公園。ありがたし。

 

駐車場の説明板。周濠から出土した土器は3世紀後半とありますが、岐阜県のサイトによれば築造時期は4世紀後半とのこと。

宗慶大塚古墳[そうけいおおつかこふん] - 岐阜県公式ホームページ(文化伝承課)

県指定史跡 宗慶大塚古墳
昭和31年に県指定史跡に指定された、岐阜県を代表する前方後円墳です。昭和25年に岐阜大学講師阿部栄之助氏の指導のもと発掘調査が行われたのち、昭和63年には、真正町教育委員会による周濠範囲確認調査が行われました。この調査では、古墳の北側、東側の周濠推定地付近を中心に調査が行われました。結果、最大幅13.41m、最大深さ0.89mの周濠が出土しました。また、この周濠幅により、宗慶大塚古墳は、全長63mの前方後円墳であることが判明しました。前方部の形については、不明な点もあり、撥形に開く可能性も指摘されています。
周濠からは、多数の土器が出土し、古墳時代初頭(3世紀後半)であることも判明しました。くびれ部の周濠底からは、底部穿孔壺が出土しました。底部穿孔壺は、底にもともと穴があけられており、実用品ではなく、古墳の祭祀のために用意され、使用されたものと考えられます。周濠掘削時期直後の地層と考えられる層からは、S字状口縁台付甕、高坏、小型器台などが出土しました。
主軸方向全長:63m
後円部直径:42m
前方部幅25m(31m)
くびれ部幅:20m
前方部周濠幅:9.1m
後円部高:4.2m
主軸方向:N‐80°05'‐W
陸橋幅:8.5m
前方部に陸橋:図面中第9,10,12トレンチ
本巣市教育委員会

 

実測図部分。前方部が太く長い印象。


主軸が東西方向の墳丘の北側広場。

 

高さがあまりない墳丘。のっぺりした印象は、残っているのが底部だけだからでしょうか。

 

くびれ部北側あたり。

 

広い後円部墳頂。

 

石垣が組まれた祠に参拝。

 

後円部縁から西方向・前方部を。

 

後円部を降りて南西方向から。この溝は墳裾でしょうか。

 

そこから右(西)を見て。道路が裾にそっていて、くびれ部がわかります。


参道に戻って、前方部先端あたりから後円部方向を振り返って。

 

前方部先端側の道路(古墳公園通り!)に面した説明板。内容は前出のものとほぼ同じでした。

 

その隣に、古墳にまつわる伝承の解説も。この場所が、扇状地から沖積低地に変わる地形の変わり目に位置していることを知りました。

県指定史跡 宗慶大塚古墳
宗慶大塚古墳にまつわる伝承
この塚は地元では古くから王塚と呼ばれ、古代王族の墓であると言い伝えられてきました。この看板の位置は、古墳の前方部の延長上にあり、後円部頂上に鎮座する田辺神社の参道入口にもあたります。
正月の元旦の朝に、この古墳の杉の木の下で、三羽の鳥が鳴くという伝説も、地元では言い伝えられています。(「本巣郡誌」昭和12年) この第一声は「国家安泰」、第二声は「村内安全」、第三声は「五穀豊穣」の祈り声と伝えられています(「真正むかしの話」) また周辺には「胴塚」、「猫塚」という地名が残され、塚があったと伝えられています。
昭和50年に真正町史を編纂した吉岡勲氏は、「古事記」開花天皇の条に天皇の皇子日子坐王の子、神大根王が本巣国造として、当地域を支配したと記載されていること、当時の見解では、旧本巣郡内の平地で、宗慶大塚古墳が唯一の前方後円墳であったこと、扇状地から沖積低地に変わる地形の変わり目に位置していることなどから、神大根王の子孫ではないかと説を出されています。
本巣市教育委員会