墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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箕谷古墳群 兵庫県養父市八鹿町小山

この日(2022/3/12)最後に訪ねたところが国史跡の箕谷(みいだに)古墳群。

八木川左岸の丘上で、川が小佐川にそしてすぐ先で円山川に合流する手前に立地。

 

つるぎが丘スポーツ公園に面した斜面にありました。

 

看板から右手に!

 

手前には数台停められます。この背面では少年たちが野球の練習中でした。

 

県指定文化財時代の説明板。

県指定文化財 箕谷(みいだに)群集墳
指定年月日:昭和59年3月28日
所有者・管理者:八鹿町
箕谷古墳群は、7世紀初頭から中頃にわたって営まれた横穴式石室4基からなる古墳群である。昭和58年に発掘調査された。
2号墳は直径14m、3号墳は直径13mあって、斜面の高い側に溝を掘って墳丘を画す。内部には細長い無袖式の横穴式石室を築く。石室の規模は2号墳が長さ8.6m、幅1.2m、3号墳が長さ9.2m、幅1.2mである。
特に2号墳からは日本で7本目の銘文入り大刀が発見されて有名となった。文字は「戊辰年五月(中)」と書かれている。戊辰年は西暦608年を示す。日本最古の銅の象嵌文字が彫られており、学術的価値が極めて高い。
平成元年10月 兵庫県教育委員会

 

国史跡となっての説明板は陶板。

史跡 箕谷古墳群
指定:国指定文化財 平成4年12月18日 7,000㎡
所在:兵庫県養父市八鹿町小山字箕谷283番地ほか
箕谷古墳群
つぐぎが丘公園を建設するために昭和58年に箕谷古墳群を発掘調査しました。ところが2号墳から銘文入り大刀が発見されたため、文化庁の指導をえて古墳を現地保存しました。そして平成5年度に史跡の保存設備が完成しました。
ここには2号墳から5号墳までの4基の古墳が作られています。古墳の内部には石をくみあわせた横穴式石室があり、その上に盛土をして墳丘を作っています。
立地をみると、古墳群の後方にあたる北側から山の尾根がせまって袋状の地形になる一方で、古墳の前方にあたる南側は低く開けます。さらに石室の入口は南方向に開きます。こうした地形や方位を考えて古墳を作ることを、風水の思想による選地といいます。これは7世紀の飛鳥地方で作られる古墳と共通する特徴です。
箕谷古墳群から出土した土器類から年代を検討すると、西暦620年代から650年代にかけて作られた古墳群と推定できます。2号墳からはじまって3・4・5号墳と順番に古墳を作っています。この順番で古墳の規模が小さくなり、さらに古墳の位置が高くなります。
古墳の大きさをみると2号墳は東西12m・南北14mで、4号墳は東西5.6m・南北7mで約半分です。時期が新しくなるほど古墳は小さくなります。4・5号墳は、古墳時代の終末期に作られる一人埋葬のための小形の古墳です。
3号墳は、墳丘の盛土を3段につんで、さらにそれぞれの段に石垣状の列石をならべます。平面的にみると3重に列石をめぐらす大変珍しい構造です。但馬には列石を持つ古墳が多くありますが、3重の列石は兵庫県下でもこれだけです。古墳の大きさは、南北13.5m・東西9・5m・復原高3.0mです。
この当時に但馬を支配した国造の古墳と考えられる大藪古墳群が、約4㎞東南にあることから、箕谷古墳群の埋葬者も彼らの但馬支配に貢献した一族と考えられます。

戊辰年銘大刀
この大刀は銘文から戊辰年銘大刀と呼んでいますが、戊辰は「つちのえたつ」という干支の年号で、推古天皇16年(608)にあたります。大刀の金具から、大和の飛鳥地方で作られたものと推定されています。
大刀は柄の一部が折れていますが、68.8㎝の刀身が残っていました。また木製の鞘は腐っていましたが、金メッキをした金具が残っていました。圭頭系大刀という種類で、刀身の全長は77㎝前後と推定されます。
銘文は刀身の柄よりに、「戊辰年五月(中)」の6文字を刻んでいます。鉄にタガネで線を掘り、その線に銅線をうめこんで文字をかくもので、銅象嵌という技法です。これは日本最古の銅象嵌です。
なぜこの大刀が作られたのか、戊辰年にどんな出来事があったのか。今後もナゾは続きます。
1994年3月 文化庁・兵庫県教育委員会・八鹿町教育委員会

 

大刀は、文化遺産オンラインで。(ちょっと画素数が…)

上記よれば、現物は兵庫県立歴史博物館(姫路市)で保管されているそうです。

 

まずは開口している2号墳へ。

 

2号墳裾にも説明板。

箕谷二号墳
戊辰年名大刀
昭和58年12月、2号墳から出土した大刀を奈良国立文化財研究所でエックス線検査したところ「戊辰年五月(中)」という銘文が発見されました。
戊辰年は西暦608年をしめす古代文字です。この年、推古天皇の命をうけた小野妹子が第2回遣隋使として中国にわたっています。
全国で8本の銘文入りの刀剣が発見されていますが、古代の干支年号をもつ鉄刀は箕谷2号墳の他には埼玉県稲荷山古墳の鉄剣だけです。
わが国における古墳の絶対年代と刀剣類の編年を考える貴重な資料であり、国指定の重要文化財です。
箕谷二号墳
二号墳は東西12m・南北14m・復原高3.2mの円墳です。西暦608年をしめす戊辰年の大刀を出土した古墳として、構造も注目されています。
人を埋葬する横穴式石室は長さ8.6m・幅1.2m・高さ1.7mの大きさです。
側壁の最も下には奥壁から大きな石材を4石続けて、その上に3段ほど石材を積みます。表面の整った長方形の石を横積みした丁寧で安定感のある石室です。また床には礫を敷きます。
石室から出土した遺物は戊辰年銘大刀をはじめ、金環という装身具、杯蓋・杯身・壺・甕などの須恵器・鉄鏃・馬具等の鉄製品など103点です。
耳飾りと考えられる金環が3点出土したことから、最低でも2人の埋葬者があったことが推定できます。

 

銘文鉄剣出土八カ所。

 

柵がありますが中に何か…

 

等身大パネルでした。須恵器、大刀や矢もあってリアル。

 

室内が明るかったのは、復原時に天窓が取り付けられているからでした。


3号墳は、三段で三重の列石が囲む珍しい仕様。閉塞石に絶望感を感じました。

 

背後から見ると優しい感じの3号墳。

 

その隣の斜面に小さな2基。

 

わざわざ斜面を選んだ理由は、眺め?


この日の宿泊は、ここから南東3.5㎞、円山川支流の大屋川沿いの道の駅・但馬楽座らく温泉。道の駅レストランは8時まで営業していたのですが、メニューにアルコール類が無い時期で寂しかったです。